今日は、JCFN25周年感謝のホノルルカンファレンス(略してホノコン16)でお話させていただたメッセージ原稿をお分かちします。このメッセージは、2日前に掲載した証とペアで語ったものです。まず証をさせていただいたあと、続けてこのメッセージを語らせていただきました。

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 こうやって私が通ってきたところをお分かちすると、皆さんは私のストーリーがなかなかresolveしないことに、落ち着かない気持ちになられたかもしれませんね。神様から励ましをいただき、ああよかった、と思ったらまた疑問や葛藤の中に落ち込む… その繰り返しでしたから。同じ証をシカゴのCCでもさせていただいたのですが、そのとき夫がこう言っていました。「佐知の証が終わったとき、みんなどう反応していいのかわからなかったのか、やけに静かだったよね」と。(笑)そう、確かにあまり、ハレルヤ!という感じの証ではなかったかもしれません。実際、「私はまだ毎日泣いています」と言われたら、拍手喝采というわけにはいきませんよね。でも、私が何より言いたかったのは、この上がったり下がったりの旅路の中で、イエス様はずっと私とともにいてくださったということなのです。私は、一瞬たりとも一人で路頭に迷って泣くことはありませんでした。私が絶望のどん底にいたときも、混乱して、悲しくて、食ってかかったときも、イエス様はずっと私とともにおられたのです。


 いま私は、私のストーリーがなかなかresolveしない、という言い方をしました。これは、「解決しない」という意味ですが、音楽では、resolveするというのは、不協和音が協和音になることを言います。
たとえば、ドとファの音を同時に鳴らすと濁った和音に聞こえますよね。しかしそこに、ラの音をたすと、濁って聞こえていた音が、とたんに耳に心地よい和音に聞こえます。音楽を聴いていて、最後の音が不協和音で終わるとなんだか落ち着かなくて、ちゃんとresolveしてほしいと感じるものです。人生もどうやら同じで、不協和音で終わっているように思えると、早くresolveしてほしくなるのでしょう。だから私たちは、自力でresolveさせようと、あれこれ音を足したり、違う音を叩いたりするのかもしれません。しかし私たちの人生において、濁って聞こえていたものがresolveするのに鍵となるのは、私たちの側の努力ではなく、神様が奏でてくださる音がそこに入ってくることではないでしょうか。ドとファがぶつかりあって耳障りな音がするその背後に、静かに流れている神様の奏でるラの音に気づくことではないでしょうか。そうして、神様の奏でる音と自分の人生で鳴っている音を重ねて聴くのです。


 それでは、背後に静かに流れている音を聴くには、どうすればでいいしょうか。それは、スローダウンし、自分の手のわざを止めて静まることではないかと思います。雑音の多いところ、せわしないところでは、バックに流れている音を聴き取ることは難しいものです。私たちは日々、多くの雑音やdistraction(私たちの注意を逸らして私たちを邪魔するもの)の中で生きています。私たちの周囲だけでなく、私たちの内側にもそのような雑音は多くあります。それを鎮める術を持たないなら、苦難や不条理の満ちたこの世界で、どうして神様がすでに差し出しておられる恵みに気づくことができるでしょうか。どうやって神とともに働くことができるでしょうか。どうやって福音を携えて外に出ていくことができるでしょうか。


 エリザベス・バレット・ブラウニングという人の有名な詩に、こういうものがあります。

この地は天で満ちている

どの柴も神の火で燃えている

しかし、それに気づく者だけが履物を脱ぐ

ほかの者はただその周りに座り、木いちごを摘む


“Earth's crammed with heaven, 

And every common bush afire with God, 

But only he who sees takes off his shoes;

The rest sit round and pluck blackberries.”


 詩を解説するのは野暮ですが、この詩を味わうためには、まず出エジプト記に記録されている、モーセが燃える柴を見たときのことを思い出す必要があるでしょう。

モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」

主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。

神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」(出3:1-5)


 モーセは、柴が燃えていることに気づきました。そして、その光景を見るために、「あちら」に行ったのです。もし柴が燃えていることに気づかずに通り過ぎていたなら、彼はここで神と出会うことはなかったでしょう。私たちの周囲にも、燃える柴は本当はたくさんあるのです。その辺にあるどの柴も、実はみな、燃えているのです。それは伝道のチャンスとか、働きの機会があるという意味ではありません。神の御臨在のことです。神様の御臨在が、御手のあとが、いたるところにあるということです。それに気付き、そちらに行くならば、私たちもそこで神に出会うのです。一見何の変哲もないようなただの柴の前で、しかし神の火に燃えている柴の前で、神に出会うのです。


 「天」とは、神様のおられるところです。神様が奏でる音が響いているところです。この地は、実は天で満ちているのです。そして、どの柴も神の火で燃えているのです。
 

 しかし、それに気づくものだけが、履物を脱いでその聖なる神の御臨在の前に立ちます。それ以外の人は、そこにある神様の御臨在に気づかずに、自分の手の作業で自分を忙しくし続けます。


 先ほど、証の中で観想的な祈りについて言及しましたが、観想的な祈りの実践は、特定の祈り方やシステムを取り入れることよりも、私たちの心の態度や姿勢を養うことで入っていくものです。普通の柴が神の火で燃えているのに気づけるようになるために、信仰を持って心を開き、注意を払い、崇敬の念を持ち、期待し、願い、信頼する…そういう心の態度を養うのです。あるイエズス会の祭司(Mark E. Thibodeaux, SJ)は、観想的な祈りについてこのように言いました。


そこで、鍵となるのは、祈りの間に神に答えていただこうとすることではなく、すでにそこにずっと存在していた答えにどうすれば気づけるようになるのか、神に教えていただくことである(allow God to teach me)。それが、祈りが為すことである。祈りは、普段の日の何の変哲もない一瞬一瞬の中に、神の御声を聞きとれるようにしてくれる。 したがって、祈るときには、「神よ、私にしるし(sign)をください」ではなく、「神よ、私に視力(sight)をください」と祈るべきだ。なぜなら、それこそ私に本当に欠けているものだからである。


 音楽のアナロジーで言うなら、神よ、私に聴力をください、となるでしょうか。


 私たちが生きているこの世の中は、ひどく忙しい世界です。忙しくしていることがステータスシンボルのようになったりします。どれだけ忙しいかで自分の価値が決まるかのようです。また、ひどく急いでいる世の中です。早いこと、ただちにできることが重要視されます。それはこの世のペースです。この世のペースに流されていたら、目の前に燃えている柴に気づかず通りすぎてしまうかもしれません。この世のペースから定期的に退き、神様の前に静まることを学ばないと、神様が奏でてくださる音を聴くことは難しいでしょう。ここで言う「神様の前に静まる」とは、自分のアジェンダを全部傍において、ただ神様の前に出ていくことです。もしかしたら、「今日は聖書を何章読んで、このデボーションの本のこのページを読んで…」といったことを傍に置くことを意味するときもあるかもしれません。これについて祈ろうと思っていた祈祷課題も、傍に置くことを意味するかもしれません。神様の御声を聞くために、ときには自分の祈りの声すらも、ミュートすることを意味するかもしれません。でもそうやって静まって、ただ神様にのみ思いを集中させるなら、神様がそっと奏でる音が聞こえるようになるでしょう。その音が聞こえるなら、私たちの人生の、そしてこの世の中の不協和音は、協和音へとresolveされるのです。もしすぐにresolveしないとしても、自分やこの世が鳴らしている以外の音もあるのだと知るならば、少なくともやがて来る最終小節で、その不協和音がresolveすることへの期待は高まるでしょう。
 


 私が心を静めて神の前に出るときに行うことの一つに、「ラビリンス」を歩くことがあります。ラビリンスとは、「迷宮」と訳されることもあるようですが、迷路のようなものではありません。13世紀にフランスのシャルトル大聖堂で祈りの一つの方法として行われていたもので、「歩く瞑想」とも言われるそうです。上からみると、こんな感じです。

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 この道筋にそって、中心に向かって歩いて行くのですが、迷路と違って、分かれ道も行き止まりもなく、実は一本道で、必ず中心にたどり着きます。たどりつくまでには何度も180度の方向転換があり、中心に近づいてきたかと思うと、いつの間にかいちばん外側の道に連れて行かれていたりします。また、どの道も似ているので、「あれ、ここ、さっきも通ってない?」と思ったりします。しかしそうして歩いているうちに、突然中心にたどり着くのです。この道筋を、祈りつつ、瞑想しつつ、歩きます。祈りつつ、と言っても、あまりあれこれ多くを自分からは語りません。むしろ、自分の重荷を神様の前に下ろす感じで、「主よ、お語りください」といった、短いフレーズだけをゆっくり繰り返し祈り、あとは神さまからの語りかけを聴くことに思いを集中します。そして、中心に着いたら、歩いている最中に神様から語られたことについてしばらくそこで祈り、それから、今度は外に向かって来た道を戻り、神様からいただいたものを持って、ラビリンスの外に出ていきます。


 ラビリンスはしばしば、私たちの信仰の旅路のメタファー(比喩)のように言われます。どこに向かっているのかわからないようでも、何度も遠回りをさせられるようでも、「道(=the WAY cf. ヨハネ14:6)」に沿って歩く限りは、必ず目的地に到着します。また、ラビリンスには中心に向かって内側に入っていく道のりと、中心から外側に出ていく道のりがあります。外側に向かって、つまりこの世に向かって出ていくためには、その前に、内側に向かって、中心に向かって歩いていかなくてはならないとは興味深いことです。私たちにとって、中心 (center) とは何でしょうか。それは私たちのいのちの源であるイエスであり、そのイエスによって照らされ、目覚めさせられた、自分の心のいちばん奥深い部分ではないでしょうか。この世に向かって出て行く前に、まず中心であるイエス様に向かっていくべきなのは、なぜでしょう。それは、私たちはありのままの自分の姿を知る必要があるからです。「こうあるべき」という理想の姿ではなく、本当の自分の姿です。弱さや欠けもあるブロークンな自分の姿です。また、私たちの活動が本当のところ、何によって動機付けられているのか、私たちが後を追ってついて行っているのは本当のところ何(誰)であるのか (Who am I following?) 、自分にとって本当のところ何がいちばん大切なのか、どこに自分のセキュリティーを置いているのかも神に示していただく必要があるでしょう。

 そして、内なる
神の愛の声を聴くのです。ブロークンであるにもかかわらず、しばしばズレたことをしている者であるにもかかわらず、「愛する息子・娘よ」と呼んでくださる神の御声を聴くのです。先にコロサイ3:3「キリストとともに神のうちに隠されてある」という御言葉に言及しましたが、私たちは、この世に出て行く前に、この「キリストとともに神のうちに隠されてある」真の自分のアイデンティティーを、真のセキュリティーのありかを、神ご自身から聴く必要があるのです。神がご覧になっている真の自分(True self)を知りYou are my Beloved、あなたはわたしの愛する者だ、とおっしゃる、その神の御声を聴くのです。そして、私たちは神様に対して自分の価値を証明する必要はないこと、主の御目には私たちはすでに十分であることを知るのです。そして、そのとき聞こえてくる神様の御声が、いかに愛と恵みと憐れみと赦しと招きに満ちたものであるか、十分に味わい、堪能するのです。そのとき、私たちはきっと、ひざまづいて主を礼拝せずにはおれなくなるでしょう。その神の愛に自分を開き、応答したいと思わずにはおれなくなるでしょう。そうやって神のいのちに満たされて初めて、今度は神の祝福を他者にもたらすものとして、喜びとへりくだりをもって外へと出ていきます。


 私たちの人生やこの世の中にある不協和音を協和音へと変えることができるのは、この内なる神の愛の声ではないでしょうか。それこそ神が奏でておられる音ではないでしょうか。イエスは地上での働きをなさっている間、それを聴いておられました。「これはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と言う御父の声を聴いておられました。その声を聴いておられたからこそ、友からの裏切りも、拷問も、十字架も、たとえそれがどんなに辛く苦しいものであっても、イエスはその不協和音をresolveして協和音として聴いておられたのではないでしょうか。

 私たちにとっては、この御父の愛の声は、おそらく一回聴いたらそれでオッケーというものではなく、何度でも聴く必要のあるものであるように思います。それは神様の愛の声が不十分だからではなく、私たちのアテンションスパンが短く、物忘れが激しく、しょっちゅう失敗したり転んだりしては不安になってしまう者だからです。物事がうまくいっていたらいっていたで、すぐに調子に乗って、自分の思いつきで走り出してしまう者だからです。私たちは、日々神の愛の御声を聴かなくてはなりません。内に向かってリトリート(退去)し、そして外に向かって出かけていく… 退き、また出ていく、退き、また出ていく… 
キリスト者の歩みとは、そのリズムに支えられるものです。それはキリストの死と復活のいのち(Paschal mystery)に与るリズムでもあります。内に向かいっぱなし、外に出ていきっぱなしではキリストのいのちの流れが止まってしまいます。イエスの教える恵みのリズム(マタイ11:28−29)が止まってしまいます。それは、私たちの日々の歩みを支えるリズムです。この世に神のいのちとご支配をもたらすためのリズムです。



 このホノコンで、皆さんも多くの励ましやチャレンジを受け、主への賛美に満たされて、UP and OUT(注:ホノコン16のテーマ)で外に出ていっていただきたいと思います。でも、それと同時に、In and Deepということもぜひ覚えておいてください。定期的に普段の活動から退いて(リトリートして)、内なる神の愛の声に耳を傾ける習慣を持ってください。日々の静まりの時間、毎週の安息日、そして半年ごとくらいにでも沈黙のリトリートを持てたら素晴らしいことです。そうやって、深く深く、神の愛に根ざしてください。


 この世が必要としているのは、そのような存在ではないでしょうか。ただ知識があるだけでなく、ただ各種のスキルを持っているだけでなく、ただ勢いがあるだけでなく、内なる神の愛の声を聞き、そこに根ざし、その声に導かれてキリストの十字架と復活のリズムに沿って歩んでいる存在ではないでしょうかそのような存在は、この世にあるどんな不協和音も、神の奏でる音によってやがて必ずresolveするという確固たる希望を持っているからです。皆さんのいのちが、日々の営みが、主の憐れみと恵みと希望のうちに立てあげられますように。そして、何ものにも揺るがされることのない希望のうちに生きている存在として、この世に出ていかれますように。