昨年英語でメモしたものを、日本語に訳して記録しておきます。


祈りの目的とは、(a) 神の臨在を識別すること、(b) 主である神のご支配に自らを明け渡すことでトランスフォームされること、そして(c) 神とひとつにされることを経験すること。

そこで、鍵となるのは、祈っているときに神に答えていただこうとすることではなく、すでにそこにずっと存在していた答えにどうすれば気づけるようになるのか、神に教えていただくことである(allow God to teach me)。それが、祈りが為すことである。祈りは、普段の日の何の変哲もない一瞬一瞬の中に、神の御声を聞きとれるようにしてくれる。 したがって、祈るときには、「神よ、私にしるし(sign)をください」ではなく、「神よ、私に視力(sight)をください」と祈るべきだ。なぜなら、それこそ私に本当に欠けているものだからである。

祈りの生活に入るようになって初期のころは、祈ることによって何が生まれるのかが私の関心事だった。しかし今では、祈ることによって私がどう変えられるのかが関心事となった。

神に向かって手を伸ばすことは、神に届くことである。

 以上すべて、 "Armchair Mystic: Easing Into Contemplative Prayer" (Mark E. Thibodeaux, SJ)より。

祈りたいという願いもまた、祈りである。(ディビッド・ベンナー)

 トーマス・マートンは、黙想したりや観想的な祈りを祈るとは、ほとんどの人にとって簡単にできることではなく、そうするよう学ぶことが必要だが、それは祈りや黙想の「方法」や「システム」を学ぶということではなく、心の態度、姿勢を養うことだと言う。信仰を持って心を開き、注意を払い、崇敬の念を持ち、期待し、願い、信頼する…そういう心の態度を養うことだ、と。そして、このような祈りは理性だけを用いて祈るものではなく、心ーー聖霊によって刷新され、キリストの恵みに完全に委ねられている心ーーから始まるものだと言う。神の臨在の中にある自分という人間のいちばん奥深くにある「中心」の部分。私たちのいのちと存在の源であるお方によって目覚めさせられた自分の心のいちばん深いところにある「中心」部分。観想的な祈りは、そこから始まる。

 ここで、鶏が先か、卵が先か、みたいな問題が出てくるかもしれない。マートンは、黙想や観想の祈りとは、神を見いだすためにすること(means)であるだけでなく、それ自体がnature of an end、つまり黙想や観想の祈り自体が、すでに見出した神の臨在のうちに憩うことだという。私たちを愛し、いつでもそばにいてくださり、私たちのところに来て私たちをご自身に引き寄せてくださる神のご臨在のうちに憩うことだ、と。

 ところが、観想の祈りを始めるようになっても、すぐにそうはいかない。そもそもどうすれば「私たちのいのちと存在の源である神によって私たちの心のいちばん奥深い部分が目覚めさせられる」ことができるのか…? 声を出さないという意味で沈黙はしていても、頭の中は忙しくいろいろな思いが駆け巡っているというのは、非常によくあること。自分の思いはちっとも沈黙してくれない。神の臨在のうちに憩うどころか、心の中でぶつぶつ言いながら自分の問題を握りしめたままだったりする。

 おそらく、祈りが深められていくこと、心の姿勢が養われていくこととは、一直線に進むものではなく、螺旋階段のようにぐるぐる回りながら昇っていくものなのだろう。何度も行ったり来たりしているような、何度も同じ景色を見ているような、それでも実は前回そこにいたときとはちょっと違う、少しだけ前回より神様により近づいているという… 

 だから、黙想や観想の祈りを始めてトライしようと思うなら、マートンやその他の先輩たちが語っているような「神の臨在のうちに憩う」といった体験がすぐにできなくても、がっかりしたりあきらめたりせずに、少しずつでも続けてみることが大事だと思う。私もそう思って、少しずつ進ませていただいている。結局のところ、霊的修練とはそういうものだ。私たちが何かを得るために行うという以上に、修練自体が私たちから神様への捧げものでもある。(参照:純粋な霊的修練とは…

そのような祈りから生じる応答は、歓喜や言葉にできる証ではなく、沈黙のうちになされる、言葉のない完全な心の明け渡しである。(Thomas Merton) 
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