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 昨日は、月に一度のスピリチュアル・ディレクションの日だった。

 当然のことながら、みんが召されてからの私がどんな道をたどっているのかについて話した。5月末のシカゴのセントラルカンファレンスで証をしたこと。また先日は南カリフォルニアでの女性集会でメッセージをさせていただいたこと。それらのことが私にどのようなインパクトをもったか。今は何を感じているか、などなど…

 その中で、観想的な祈り(Contemplative prayer)がどれだけ私の助けになっているかについても話した。観想的な祈りについては、私の証やメッセージの中でも言及し、簡単にだけれど、次のように説明した。

これは、言葉や思考をあまり用いない祈りです。信仰によって神様の御臨在の中にただ自分を置く祈り、あるいは詩篇46:10 ”Be still and know that I am God.” の祈りとも言えます。私にとっては、沈黙のうちに主の御前に、思いも感情も含めて自分自身を差し出す、サレンダー(明け渡し)の祈りでもありました。

 ディレクターに、観想的な祈りの実践が、私にどのようなものをもたらしていますかと聞かれ、私は少し考えてから次の三つをあげた。


-アウトカムを支配したいという思いから自由になること(Freedom from a need to control outcomes)

-何かに対する執着心から自由になること (Freedom from attachment)

-物事を自分に納得できるように説明したいという思いから自由になること (Freedom from a need to explain things that happen to me)


 もちろん、これらのものからまだ完全に自由になったわけではなく、これからも祈り続けていく必要があるのだけれど。そして、これらの自由は、必ずしも私が「思考停止」になって、なんでも無批判・無差別に受け入れるようになるということでもない。それはむしろ、神様の御臨在、神様の愛と恵みとあわれみの中に引き寄せられていく旅路のようなものであり、その中で、明らかに神様からのものではないと思われるものに遭遇すれば、それは退ける。そう、何がlife-givingで、何がそうでないかを見分けていく、Discernment (識別)を学ぶ旅路なのかもしれない。 


 ところで、観想的な祈りのひとつの実践に、Centering Prayerというものがある。私は Centering Prayerを毎朝15分間することを心がけているのだけれど、そのときに使っているアプリがあるのでご紹介します。