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(去年の夏)

 昨日はスピリチュアル・ディレクションのクラスがあった。2年間のコースももうすぐ終わる。年が明けてから
は、みんが亡くなってひと段落ついた3月の末まで、一度もクラスに行くことができなかった。2年目の丸々半分をミスしたことになる。それでも、クラスのコーディネーターや私のグループのリーダー、そしてクラスメイトたちはとても優しく、祈りで支えてくれた。クラスの提出物も、「慌てる必要はないですよ。今いちばん大切なのはミホのそばにいることですから、それを優先させてください」と、提出期限をたっぷり延期してくれた。講義はすべて録画されてオンラインにアップされているので、あとから聴講することができる。今、少しずつミスした分を聴いている。

 一人で車を運転しているときにみんのことが思い出されると、つい名前を呼んでみたくなる。最初は小さい声で、だんだん大きな声で、最後には怒鳴らんばかりの大声で、みんの名前を呼んでしまう。

 夕べもそうだった。クラスからの帰り道、車を運転しながら、「ミホー! ミホー!」と叫びながら泣いていた。家に帰ったら私が涙ボロボロだったので夫が驚いて、「どうしたの?」「みんのことを思って、泣き叫びながら帰ってきたの」と言うと、「そうだよね、そうだよね」と私を抱きしめてくれて、二人でしばらく泣いた。

 つい先日、もう七週間過ぎたのだし、そろそろ区切りを…と思ったばかりだったけれど、やはりそんなに都合よくはいかない。


 私はいろんなブログ記事やデボーショナルをメールで配信してもらっているが、すべてに目を通しているわけではない。数が多いので、たまたま目に留まったりタイトルが気になったものだけ読んでいる。

 今朝は、エミリー・P・フリーマンのブログ記事のタイトルが目に留まった。

 「What We Say When Someone Dies

 メールのinboxをスクロールする私の手は当然のように止まり、そのタイトルをクリックした。

 その記事は、プリンスの訃報を聞いたウィル・スミスが、「とても信じられない。夕べ話したばかりだったのに」と言った、というエピソードから始まっていた。知り合いが亡くなると、その人がもはやこの地上に存在しなくなったということを受け入れるのは難しい。最後にその人と会ったのはいつだったかを思い出し、あのときは確かに私の目の前にいて、話をしたのに、声を聞いて、その手に触れたのに、と思ってしまう。それが身近な人、愛する人であれば、なおのことそうだ。

 私の場合、みんとの最後の時間だけでなく、この家の中のどこを見ても、みんの姿をそこに見つけることができる。食事をするみん。ソファでウィルソンとくつろぐみん。冷蔵庫をあけるみん。コーヒーを淹れるみん。パパと背中をバタバタ叩き合いながらハグをするみん。ガレージから続くドアを開けて帰宅するみん… 家の中だけじゃない。この街中そうだ。みんはここで生まれ育ったので、街中にみんの思い出がある。スターバックス、ターゲット、パネラブレッド、ジョアン・ファブリック… どこにいても不思議はないのに、もうどこにもいない。いくら目をこらしても、みんは見えない。みんの声は耳の奥に残っているのに、こちらから呼びかけても返事はない。「みんちゃん、みんちゃん…」名前を呼びながら、ついエアハグしてしまう。でも、かつては私の腕にすっぽり収まっていた小さなみんの身体を、抱きしめることはもうできない。

 フリーマンは言う。愛する人の存在を、もはや五感で確かめることはできないという現実をゆっくりと受け入れていく中で、今まで知らなかった新しい方法で、「見ること」ができるようになりますように。自分の五感に頼れなくなったことが、神の国の新しい理解へとつながっていきますように。「目に見えるもの」だけが唯一の現実ではなく、愛はこの地だけのものではないのだ、と。

 たいていのことを聞いても慰められなかった私だけど、この言葉には不思議と静かな慰めを覚えた。

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(第一コリント2:9)

 みんは一足先にそこへ行って、私たちを待っていてくれる。