今日は夫と二人で、Transforming Center (代表 Ruth Haley Barton)主催の「十字架の道行きの祈り」礼拝に参加してきた。場所はホイートンにあるロレット女子修道院のチャペル。イエス様が十字架に架けられた時間に合わせて、昼の12時から。

 最初にルース・ヘイリー・バートンが、"The Practice of Keeping Vigil"と題する分かち合いをした。他者が苦しんでいるとき、いかにその人に寄り添うか、何もできなくても、苦しむ人のそばに最後までずっと付きそうとはどういうことか。イエスはゲツセマネの園で祈ったとき、弟子たちに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい」「ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」とおっしゃられた。キリスト教の伝統のひとつとして、受難週にキリストにずっと付き添う(keep vigil)ということがある。マグダラのマリヤとイエスの母マリヤと使徒ヨハネは、イエスの十字架の近くにとどまり、イエスが息を引き取られるまで見届けた。それは、どれほど恐ろしいことだっただろう。愛する人が鞭打たれ、罪に定められ、十字架につけられ、息を引き取られ、墓に葬られるまで、じっと見つめ続け、そばに寄り添い続けるとは。しかし、どんなに恐ろしいことでも、深い愛による親密な関係にある人であれば、それを成し遂げることができる…

 これは、今の私にとって、あまりにもリアルな話だった。みんが召される前の晩から息をひきとるまで、そして棺に寝かされ、火葬場の炉に入れられるまで、私たち家族とマイケルはずっとみんのそばに寄り添い続けた。 他人はもちろん、ただの知り合い、ふつうの友達というだけではできることではない。バートンが言ったように、苦しみを受けている人と深く結ばれている親密な関係にある人だけにできること…

 バートンは、クリスチャンが受難週にキリストに付きそう一つの方法は、「十字架の道行き」に合わせて祈ることだと言った。十字架の道行きとは、プロテスタントのクリスチャンにはあまり馴染みがないかもしれないが、カトリックの伝統で、イエスが裁判にかけられたときから十字架の死に至り、墓に葬られるまでの歩みを14の場面に描いたもので、カトリック教会や黙想の家などに行くと、その14の場面が絵画やレリーフなどで聖堂内や敷地内に順に並べてあったりする。それぞれを「ステーション(留:りゅう)」といい、この一つひとつの「留」を順番にたどってイエスの受難を場面ごとに黙想しつつ祈ることを、「十字架の道行きの祈り」と言う。(参照

 今日の受難日礼拝では、バートンの祈りのリードに合わせて、礼拝堂内にかけられていた十字架の道行きのレリーフをたどりながら、また途中でいくつかの歌を交えながら、黙想しながら皆で祈った。

Opening Meditation
 Let us walk prayerfully into these moments of meditation, watching and waiting with Christ through the darkness of his death and burial so that together we can share in the joy of his resurrection.

Silence for Personal Reflection 

Prayer
 Almighty God, whose most dear Son went not up to joy but first he suffered pain, and entered not into glory before he was crucified:
 Mercifully grant that we, walking in the way of the cross, may find it none other than the way of life and peace; through Jesus Christ our Lord. Amen. (Book of Common Prayer)


 それぞれのステーションの祈りはどれも意義深かったけれど、私にとっては特に、第4ステーション「イエス、母マリヤに会う」が心に突き刺さった。

 主なるキリスト・イエスよ、この道における私たちの教師であるお方よ。この地でのあなたの人生は、神のみこころに完全に自分自身を明け渡していたあなたの母マリヤによって形作られました。「私は主のはしためです。あなたのおことばどおりこの身になりますように」という母上の祈りは、神のみこころに完全に自らを明け渡すことの意味を現すものとして、歴史を通して響き渡っています。あの日、神のみこころに母上がご自身を完全に明け渡したことにより、自ら良しとして引き受けることになった痛みを母上の目の中にご覧になったとき、あなたは何を思われたのでしょうか。まさか我が子がこんなにも悲惨なことになるなど、母上だって予想だにしていなかったでしょうに。母上の目にはいくらかでも後悔の念が見えたでしょうか。
 
 主なるキリスト・イエスよ、私たちの兄弟であり友であるお方よ。あなたの母上の人生は、ときには自分が生んだものでさえも手放さなければならない時があることを教えてくれます。それがいつかもう一度戻って来るためには、私たちからいったん取り去られることを良しとしなければならないのです。それは、これ以上の痛みはないというほどの深い痛みのように思えます。

 この道行きをあなたと共に歩くとき、そのときが来たらどうやってその痛みを担えばいいのかを、どうか教えてください。

 主よ、憐れみによって、この祈りを聞いてください。

 …… 今日、この祈りを祈れただけでも、私には大きな慰めだった。

 あの晩の、御父に見捨てられたかのように感じられた苦しみ。
 自らお腹を痛めて産んだ子が苦しみ、自分の手を離れていなくなってしまうことを見守るしかなかった断腸の苦しみ。

 ああ、この苦しみが、私ひとりのものではないことを感謝します。何よりも、あなたご自身が通られた苦しみであり、あなたの母上が通られた苦しみであり、あなたの優しい目はその苦しみにもだえる母の目をご覧になっておられたのです。私の苦しみだと思ったものは、実はあなたの苦しみだったのです。あなたと共に担わせていただけたことを感謝します。そして、今なお私の中にあるこの痛みを、主よ、あなたにお渡しいたします。

 あなたに。

 あなただから。

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