みんが主のもとに召されてからもう4日め。

 ゆっくり悲しむ間もなく、今はお葬式などの準備に追われている。今日は、日本から妹が助っ人に駆けつけてくれた。

 先週末は、エミが金曜日から日曜日まで帰宅し、ま〜やも春休みだったので日曜日の午後から1週間帰宅することになっていた。しかし、金曜日の午前中の時点で、みんの様子が悪くなったため、ま〜やにはフライトを変更して、1日早く帰ってきてもらうように頼んだ。ま〜やはすぐに対応し、土曜日の朝8時過ぎに到着するフライトを取ってくれた。おかげで、みんが息をひきとる前に帰ってきて、みんに会うことができた。
 
 エミは2泊だけの予定での帰宅だったけれど、一週間仕事の休みを取って、次の土曜日までここにいてくれることになった。それで、二人がまだここにいるうちにお葬式をするべく調整し、木曜日にwake(お通夜のようなもの)、お葬式は金曜日になった。

 第1コリント15章42節からの御言葉に励まされ、考えさせられている。私たちの朽ちる身体は死んで地に蒔かれるけれど、時がくれば、朽ちない身体、永遠に生きる身体を持ってよみがえらされる。そして、朽ちる身体、血肉の身体では、神の国を相続することはできない。

しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 (54、55節)
 私はこの地上でみんと会えなくなるのは嫌だったので、癒しを求めて祈っていたけれど、癒されることなく召されたからといって、みんが死や病に「負けた」わけではないのだ。病が癒されることによって死が勝利にのまれるのではなく、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、つまり、血肉の身体は死んでも、永遠に生きる身体に変えられてよみがえらされるとき、死は勝利にのまれる。みんの身体は死んだけれど、みんは負けなかった。


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