1日の中で、朝の時間がいちばん好き。

静かで、まだ涼しくて(今週は連日最高気温が華氏90度[摂氏32度]を超えるらしい)とても落ち着く。朝9時を過ぎると、周辺の家のエアコンが始動し始めるのか、どこからともなく機械音が響いてくるけれど、その前の時間帯は、鳥の声が耳に心地よい。

庭に出て、植物たちに水をあげたり、成長の具合をチェックしたりする。
キュウリとズッキーニは花がたくさん咲いているけれど、今のところほぼ雄花ばかり。
インゲンは、今朝は五本ほど(笑)収穫した。
トマトは赤くなるまでまだ当分かかりそう。
ラベンダーはしばらく前に花をいくつか摘んで、小さな束をドライにしている。

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今年は例年より暑くなり始めるのが遅かったせいか、植物の成長も例年より遅い気がする。

うちには4種類のあじさいがあり、例年ならこの時期、全種類とも花盛りなのに、今年は一つ、遅れているのがある。つぼみはたくさんついているので、もう少しだろうけど。

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ウィルソンも朝の見回りをする。
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庭を一通り歩いたら、座ってしばらく静まりの時間。
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友人がリチャード・ローアの『Just This』を使って夫婦で黙想していると聞き、そう言えば私もこの本持っていたなぁ、ほとんど読んでなかったけど、と思い出し、読み始めてみた。

すごくいい。 

昨日読んだ箇所の中で、マルコ13:33−36(「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。……」)に触れている部分があった。

ローアは言う。多くの人たちはこの部分を、怖い警告のように読んでいたのではないか、油断しているとイエスさまが突然戻ってきて、用意できていないと裁かれるぞ、のように。しかしここで主が語っておられるのは、イエスの再臨、the eternal coming of Christのことであって、脅しのような警告ではないのだ、と。そしてThe eternal coming of Christとは、「今」なのだ、と。

再臨や携挙に関する神学的な解釈に入っていくと、いろいろあって紛糾しそうだけど、それはひとまず置いておいて、イエスさまは今ここで、ご自身の御霊によっていつでも私たちとともにおられる、というのはだれもが同意する教義だよね。ローアは、今ここにおられるイエスさまは、いろいろなものを通して、いろいろな機会に、私たちに語りかけよう、ご自身を現してくださろうと、いわば虎視眈々と待ち伏せしておられる("Divine Ambush" 聖なる待ち伏せ)のだと言う。しかし私たちが目を覚ましておらず、ぼんやりしていたら。過去のことばかりに引きずられていたり、将来のことばかり心配して、「今、ここ」に生きていないのなら。そうであるなら、「今、ここ」にしかおられない主と出会うことがないのだ。しかもその「今、ここ」は、私たちにとっては不都合と感じるときかもしれない。静かな朝の時間は主とまみえるには最高の時間帯だけれど、「邪魔が入った!」と感じるとき、「これかよ!」と思うような時にも、主はそこにおられ、慈しみに満ちた眼差しを向け、優しく語っておられる。

観想的霊性では、「これかよ!」という瞬間が「まさにこれ!」という主との出会いの瞬間に変わっていくのだろう…

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです」というマルコの一節が、新しい意味をもって迫ってきた。