2週間ほど前、コロナパンデミックで自宅待機が続く中、運動不足になってはいけないと思い、友人とズームでエクササイズをした。ラジオ体操とストレッチ。とても気持ちがよく、その日は1日調子が良かった。

ところが夜になり、いつものように机に向かって仕事をしている時、何かの拍子に背中をねじってしまった。そしてそのあと、立ち上がってみると、臀部から両足の裏側にかけて、しびれるような痛み。

「あいたたたた… 」と、立っていられない、普通に歩くこともできなくなっていた。

これが、朝のエクササイズと関係していたのかはよくわからない。むしろ、仕事をしているときの私の姿勢に問題があったのかもしれない。もともとデスクワークばかりなのに加え、ジムに行けなくなってしまったので、よくない要因は重なっていたと思う。

実は、冬の終わりにも、エクササイズしているときに、腰をひねってちょっと腿の裏側に痛みを感じて、少し足を引きずっていたときがあった。そのときは、2週間くらいで自然に治った。 多分、骨盤とか脊髄とか、長年の間違った姿勢で痛めやすくなっていたのだと思う。

とにかく動くとかなり痛むので、おとなしくしているほかはない。ストレッチも、痛みがあるうちはしないほうがいいらしい。自宅待機令でもともと外出の予定もなかったけれど、それでも家周りや庭仕事を楽しもうと思っていた。自宅待機中でもできることはいろいろある、ふだんはしないことをしよう!と思って、楽しみにしていた。ところが、それもできなくなってしまった。正直、がっかり。

もちろん、仕事はこれまでどおりデスクワークなので、それに支障はないものの、いか
んせん座ってばかりだと体がなまる。体に慢性的な痛みがあると、それだけで気分が下がる上に、がっかり感があるといっそう落ち込む。よくないループだ。

そこでこのがっかりな気持ちやフラストレーションを、 「歓迎の祈り」で歓迎することにした。フラストレーションがあると、それを感じないようにしよう、考えないようにしようと、抵抗して無意識のうちにも抑圧してしまう。しかし抑圧しきれなくなって、なにかの拍子に苛立ちが溢れ出て、周囲にばらまいてしまう。歓迎の祈りとは、究極的には明け渡しの祈り。しかし、一回明け渡したらそれで完了、ではない。その感情が出てくるたびに何度でも祈る。自分を侵食するような感情を受け止め、歓迎し、もてなし、その上で、その感情の背後にある、期待通りに物事をコントロールしたいという願いや、他者から受け入れられ、認められ、愛されたい、安全でありたい、安全であるとの保証がほしいなどの願いを手放す。今回の私の場合は、自宅待機中であっても、プロダクティブでありたいという私の願い、期待を手放す。

歓迎の祈りのあと、さらに主の御臨在の中にとどまっていると、ケンとケンの友人 (現在同居中)が、陽のあたる部屋のソファに座り、それぞれにパソコンに向かって勉強している姿が思い浮かんだ。彼らも、楽しいキャンパスでの生活をいったん手放すことを余儀なくされ、家に戻ってきた。そして、遠隔地からオンラインで授業を受けるという、本来のキャンパスライフとはかけ離れた生活をすることになった。彼らが今回手放したもの、失ったものを思うと心が痛む。しかしその反面、彼らが家にいることが嬉しい。彼らと時間を過ごせることが嬉しい。去年の夏の終わりにケンが大学に向けて出発したとき、今後は「帰省」することはあっても、もう2度と「一緒に暮らす」ことはないのだと思い、切なくなったものだった。それが今回、思いがけずもう一度彼とゆっくり暮らせることになった。しかも、自宅待機中だからずっと家にいる。自室で勉強している時間がほとんどだけれど、毎日一緒に食事できる。私や夫にとっては、棚からぼた餅のような祝福、喜びだ。

そんなことに思いを巡らせていると、御父の視線を感じた。天のお父さんも、私の喪失感や体の痛みには共感しつつも、私との時間を喜んでおられるのだと感じた。体を動かせなくなったことを嘆くよりも、それによって与えられたこの機会を一緒に楽しもう、そう招いておられるのを感じた。私が息子との時間を喜ぶように、神様も私と一緒の時間を喜んでくださる… 自分が期待していたような生産性は今は得られないとしても、私が神様にとってのBelovedであることに変わりはない。 なんという慰め。

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