観想とは、ラテン語ではコンテンプラツィオといい、「じっと見つめること、観ること」。自分が今いる場所に、生活の端々に、社会の片隅にも、神とは無関係に思えそうなところにも、そこにおられる神を観ること。

神を凝視(みつ)める。神の愛を観る。神の恵みを観る。神の慈しみを観る。神の痛みを観る。神の悲しみを観る。

自分の生き方が、神を観ることに対する私の反応、応答として流れ出てくるとき、私は「恵みのリズム」の中に生きていると言えるのだろう。

ハンス・ビュルキ師は『主の弟子となるための交わり』の中でこう言っている。

 イエスはパリサイ人と議論したときに 、人を誤謬へと導く、内側と外側の間違った順序を的確に指摘しておられます。「あなたがたは杯や皿の外側は清めるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。…まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」(マタイ23:25−26)

 私たちはこれと反対の順序に慣れています。外側から内側に至る道を歩もうとします。これでは目標にたどり着けないと気づいていながら、この道に固執しています。自分とは正反対の順序に反抗します。自分のものの考え方や生活習慣をことごとひっくり返してしまうからです。恵みを受け入れ、味わい、その恵みにふさわしい表現を与える代わりに、自分に対して、また他の人に対して、自分の実際の状態よりももっと良い印象を与えようとします。こうして私たちの生活は、見せかけの偽善的なものになってしまいます。

 ……これと関連して、私がしばしば引用するみことばをここに記しておきましょう。「恐れおののいて自分の救いを達成してください。神は、みこころのままに、 あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(ピリピ2:12−13)

 ……この箇所は次のように翻訳し直すことができるでしょう。「恐れおののいて(全き献身において)、(あなたがたのうちに植え込まれたものを)かたちに現しなさい。神はあなた自身のすべての志を超えて、あなたがたのうちに志を立てさせ、事を行わせてくださるからです。」


 外側の形から入るのでなく、まず恵みを受け入れ、味わい、それからその恵みにふさわしい表現を与える。内側から外側へ。先に恵みがあり、それからその恵みに対する私たちの応答がある。

 神を観る。私とともにおられるお方を観る。その眼差し。差し伸べてくださる御手。隣に座っていてくださるその御臨在からくる温かさ。安心。安全。その中に包まれて、抱かれて、守られて、私はその愛にどう応答したいだろうか。何も自分で証明したり、擁護しようとしたり、誰かを説得しようとする必要はない。ただ神を観て、その愛に応答していく。私のうちに神がすでに植え込んでくださったものを、全き献身を持ってかたちに現していく。まず招きがあり、それからその招きに応答する。それが恵みのリズム。


 
 *「恵みのリズム(rhythms of grace)」とは、The Message訳のマタイ11:29「Walk with me and work with me—watch how I do it. Learn the unforced rhythms of grace. 」からで、このブログのURLもそこからとったもの。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
                     (マタイ11:28−30)

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