(Today's blog is adopted from Seedbed The Daily Text by JD Walt. Translated and posted by permission of the author. Thank you, JD!!)


「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(創世記3:19b)

再び「灰の水曜日」がやってきた。それは、私たちが死を免れ得ない存在であることに否応なしに直面させられ、悔い改めてイエス・キリストの福音への信仰をもう一度奮い立たすようにと手招きされる日だ。

再び「灰の水曜日」がやってきた。それは、歴史の中で最も悲しい日をもう一度語る日だ。私たちの古代の祖先が神に背くという致命的な選択をしたことを覚える厳粛な日だ。彼らは、無限の祝福が与えられている世界から、果てしない呪いを選んだのだ。

「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。
あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(創世記3:19)

再び「灰の水曜日」がやってきた。それは、死とは決して神のご計画に含まれていなかったことを思い出す日だ。神のご計画と神のみこころはいつでもいのちである。いのち、いのち、もっといのち。そして死という闇が侵入してきたにもかかわらず、神のご計画は変わらない。だからイエスが宣言しながらやって来たのだ。

 彼は言われた。「そのときがやって来た。神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

再び「灰の水曜日」がやってきた。それは、イエスは二番目、三番目の代替案ではなかったと悟るときだ。イエスは最初から第一案だった。神が人間をご自身のかたちに似せて造るとは、人間を完全な愛の形に造ることを意味していた。完全な愛の形に造られるとは、完全な自由が与えられることを意味していた。そして完全な自由が与えられるためには、神のみこころ以外のものを選ぶ可能性もあることが必要だった。それが愛というものなのだ。終わりと始めとその間のすべての瞬間についてご存知の神は、そのご性質が完全な愛である神は、愛が失敗することをあらかじめ定めないのと同じように、贖いの愛をあらかじめ定める必要もないのだ。愛とはそういうものであり、愛は、愛が意志することを行なう。神が愛であるのは、神が愛するからではない。神が愛だから愛するのである。同じように、人は罪を犯すから罪人なのではない。むしろ、罪人だから罪を犯すのである。人は愛するから愛される者になるのではない。人は愛されたから愛される者になるのであり、愛される者になったから愛するようになるのだ。

再び「灰の水曜日」がやってきた。それは、悔い改めて、もう一度の馬の背に乗るとき、打席に入るとき、「イエス」と彼の名をささやく勇気を奮い起こすとき、そしてイエスがすでにご存知のことをもう一度彼に思い出させるときだ。つまり、「罪人(すなわち死)というアイデンティティーの中で身動きできないまま生きるのはもううんんざりです!」、そして「愛されている者という解き放たれたアイデンティティーに根ざして生きていく用意ができています!」ということである。最後には、罪も愛もない。あるのは「罪人」か「愛されている者」かである。福音の栄光とは、神の愛の力により恵みが罪人を愛されている者に変えられることであり、いのちによって死が打ち勝たれることなのだ。

再び「灰の水曜日」がやってきた。それは、悔い改めて福音を信じるときだ。しかし、罪を止めようとして一生懸命頑張るのではない。愛し始めるのである。自らを罪人として見るのを止め、愛されている者として見始めるのである。古いものは過ぎ去り新しいものがやって来たとは、そういう意味だ。福音を信じることなしに悔い改めることはできない。福音を信じるのでなければ、どこに向きを変えるというのか。では、福音とは何か。福音とはこれである。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)
救いとは、罪人がそれでも喜んで愛されようとするときに始まる。聖さは罪人がそれでも喜んで愛そうとするときに始まる。

再び「灰の水曜日」がやってきた。

あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。悔い改めて、福音を信じなさい。

Seedbed The Daily Text より。著者の許可を得て翻訳し、掲載させていただきました。)

Daily-Text-JAMES-02-10-16
 

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