「私が持っている神観は、神ご自身の考えではない。私の神観は何度でも打ち砕かれなくてはならない。神ご自身がそれを打ち砕く。 神は偉大なる聖像破壊主義者だ。神観が打ち砕かれることこそ、神の御臨在がそこにあるしるしの一つだと言ってもいいのではないだろうか?」 CSルイス(『悲しみを見つめて』私訳)

My idea of God is not a divine idea. It has to be shattered time after time. He shatters it Himself. He is the great iconoclast. Could we not almost say that this shattering is one of the marks of His presence?” ~C.S. Lewis (A Grief Observed)

 しばらく前、ある友人と話をしていた。いろいろ話す中でその人は、「いろんな本を読んで、いろんな人の意見を聞いていると、ゆらぎませんか?」と言った。私は、「ゆらぎますよ」と答えた。

 「ゆらぎますよ。それは、いろんな本を読んでいろんな人の意見を聞くから、というだけではなくて。日々の生活の体験の中で、自分が思っていた神様とは違う、私が思っていた神様だったらこんなことはなさらないはずなのに、こんなことは起こらないはずなのに、と思うことが何度も起こります。

 そういうときは、私が持っていた限られた神観が修正されるとき、より広げられていくときでもあるのです。だいたい私が持っている神観が、神様の全体像を正確に反映しているはずがありません。私たちは神様のほんの一部しか知りえないでしょう。みことばを読んで、そこからの気づきで私たちの神観が修正されることもあります。物事が自分の期待どおりにならなかったときに、私たちの神観が修正されることもあります。 旅路が続けば、見える景色は変わってきます。成長すれば、理解の度合いが深まり広げられます。 その意味で、私の神観や信仰は絶えずゆらがされ、よりrobustなものになっていくのです。」

 この「robust」という単語は、ここで私が言わんとしていることをとてもよく表してくれる単語だ。それには、「強靭な、頑丈な、健全な、力強い、(ワインなどが)こくがある、芳醇な」といった意味があり、私たちの信仰の変化が向かう方向を、とてもよく表しているように思う。

 ゆらぐことによって、よりrobustになっていく。。。矛盾しているようだけれど、真実だと思う。

 ああ、それにしてもCSルイスは! いつもながらなんと的確に表現することか。神は偉大なる聖像破壊主義者! アーメン!

 神様、私があなたについて抱いている考えや信念で、破壊されるべきものがあれば、どうぞ遠慮なく破壊してください!

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