No natural feelings are high or low, holy or unholy, in themselves. They are all holy when God's hand is on the rein. They all go bad when they set up on their own and make themselves into false gods. ― C.S. Lewis, The Great Divorce

自然な感情はどんなものであれ、高いも低いもなく、清いも清くないもない。神の御手が置かれているなら、どんな感情でも清い。神から離れ、それらの感情が偶像となるなら、どんな感情もよくないものとなる。CSルイス 『天国と地獄の離婚』(私訳)

不思議なことに、今日は二度、異なる場所でこの引用を見かけた。

これを読んでふと思わされたのは、感謝や疑いも、神様に導かれ、御手が置かれるならどちらも清いものとなるだろうし、自分の利益や都合に駆られたところから出てきて、それが偶像になるなら、どちらも良くないものとなる…のではないかな、と。

たとえば感謝も、感謝すれば自分の益となるように物事が進むだろうと期待して感謝するなら、それは一種の呪術のようなもの。また、悪いことを口にするとそのとおりになってしまうから、悪いこと(疑いなど)を口にすべきではない、というのも、聖書の神様への信仰ではなく、言霊信仰のようなものだと思う。

詩篇に表されるダビデの感情はどれも、神の御前に吐露され、神の御手が置かれたものだったと思う。だからその一つひとつが、どんなに否定的に聞こえるものでさえも、清い。

けれども、近年のスピリチュアリティーブームでよく聞く「欲しいものを手に入れるために」などと謳われる、引き寄せの法則のようなものから出てくるポジティブ思考や、神様を知らないところから出てくる絶望は、ルイスが言うようにThey all go badなのではないかな…

クリスチャンが時々言う「感謝の先取り」のようなものも、かなり呪術的であるように感じたり。神様への感謝というのは、将来我が身に起こるである良いことを期待して感謝するものでなく、*今*神様がすべてを統べ治めておられるから、*今*神様はすでに完璧に良いお方であるから、だから結果がどうなるかにかかわらず、*今*感謝するのではないかな… 先取りなんじゃなくて、「今」感謝なんだと思う。

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ベゴニア