時々、「聖書には思春期や反抗期はないので、子どもの反抗を許してはいけない」という教えを教会で聞くことがある。しかし、実際のところ、どうなのだろうか。

 まず、聖書に「思春期」「反抗期」ということばは確かにない(「更年期」も「PMS(月経前症候群)」もない)。しかし、発達段階において「思春期」と呼ばれる時期が存在するのは厳然たる事実だ。聖書にも、ルカ2章42~52節のように、十二歳になったイエスの思春期のようすを垣間見られる記事がある。

 思春期とは、医学的には「第二次性徴の始まりから成長の終わりまで」と定義される。体の変化は誰の目にも明らかなので、それを否定する人はいないだろう。だが、この時期の子どもの心が不安定になったり、反抗的な態度をとったりすることについては、あたかも躾不足や子どものわがままのように思われることが多いのではないだろうか。

 けれども、ティーンが情緒不安定になったり、大人の目からはありえないような行動や選択をしたりしてしまう背景には、脳の発達という神経科学的な理由があるのだ。

 脳の発達は、十二歳ぐらいまでに止まると以前は思われていたが、近年の研究で、二十代半ばくらいまで続くことがわかってきた。そして、脳のすべての部分が同じペースで発達するのでなく、異なる部分が異なるペースで発達するので、この時期の子どもは、ある面においては大人並みのことができるかと思えば、別の面ではまったく幼稚だったりする。中でもティーンの脳は、計画、順序の決定、総合的判断、衝動の抑制、行動結果の予測などの高次機能をつかさどる部分が未発達でありながら、論理的思考をつかさどる部位は一足先に発達するそうで、どうりでろくな判断ができないくせに、口先では理屈をこねるわけだ。さらに、ホルモンバランスも崩れやすい時期なので、このころの子どもは、内なる葛藤の中にいることになる。

 とはいえ、だからといって、子どものやりたい放題にさせておくべきではない。この時期を通るのが生理的なことであるなら、親にはなすすべがない、というわけでもないはずだ。この発達過程にある子どもは、心身の仕組み上、自律しきれないので、親は自律を助けてあげるような形で介入してあげるといい。それが、適切な境界線を引いてあげることである。

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 例えば次女が十七歳のころ、彼女の生活のある部分において、近ごろ自制がうまく働いていないと感じられる点があったので、そのことについて話しをしたことがあった。

 「お母さんはあなたのことを信頼しているよ。でも、お母さんが信頼しているからといって、あなたがいつでも賢明な選択ができると保証されるわけではないよね?」

 「うん」

 「あなたが自分の行動をうまくコントロールできなくて苦しんでいるらしいのを見ると、お母さんとしては、少し介入したほうがいいかな、と思うのよ。それで提案なんだけど、これからは○○にしてはどうかしら? これは、あなたの行動を制限することが目的ではなく、あなたがより良い選択をしやすくするためよ」

 「○○にしてはどうか」と境界線を引くことを、子どもの自由を奪ったり、行動をただ制限することと考えるのではなく、子どもがより良い選択をするのを助けてあげることだと考えてほしい。境界線は、上手に提示するなら、子どもの心に大きな安心感を与えるものなのだ。境界線の内側は、言わば、子どもにとっての安全地帯なのだから。

 子どもは、年齢が上がるにしたがって、親の言うことを聞くだけでなく、自分で適切な選択をすることを学ばなくてはならなくなる。自分が真に何を欲しているのかを模索し、それをどのように実現させていくのかを学び、自我を確立させなくてはならないのだ。境界線は、親の期待や要求を突きつけて、それに従わせるためのものではない。それをするなら、子どもは反抗するだけだ。しかし、子どもが自分で考えることを促し、一人立ちするのを手助けする方向で声をかけてあげるなら、むやみやたらな反抗はしないだろう。親のことばに耳を傾け、その上で自ら判断するようになる。結果として、親の考えとは異なるものを選ぶかもしれないが、それは反抗ではない。

 そういうわけで、この時期を「反抗期」と呼ぶと、親の側も子どもに対して戦闘態勢に入ってしまいそうなので、私は「自我確立期」と呼ぶようにしている。

 親は、子どもを支配しようとする者ではなく、子どもの喜ばしい成長のために働く協力者なのだ。

 「私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です」

(第二コリント1・24)


(ミルトスの木かげで 第19回 いのちのことば 2013年03月号