先日紹介したNTライトのチャペルメッセージの中で、ライトが、人生の中で問題や問いにぶつかるとき、疑問を持つことを恥じるのでなく、問い続けることが大切だと言っていたことに、とても励まされた。

 問い続けつつ、しかし早急な答えを要求するのでなく、忍耐を持って待つこと。そしてただ待つのでなく、みことばを読み、静まり、祈り、神の物語の中に自分を置きつつ待つこと。

 そして、聖書を読むにあたって、大きなかたまりで読むことと、少しずつ丁寧にじっくり学ぶことの両方が大事であるということ。

 この、「大きなかたまりで読む」とは、数章ずつ区切って読むのでなく、たとえば書簡や福音書をそれぞれひとまとめで読むとか、そういうことだと思うのだけれど、私がこれまで慣れていた読み方は、一回に数章ずつ、近年に至っては一回に数節ずつというものだった。数節ずつ読むときは、レクツィオ・ディヴィナという、みことばにじっくり思いをめぐらし、神様に聞きながら読む方法を用いる。それはそれでとてもよいのだけれど、「大きなかたまりで読む」というのも、以前からぜひやってみたいと思っていた読み方だった。

 そこで、しばらく前に新改訳2017を入手したのを機会に、やってみることにした。

 私はもともと、聖書通読表に従って、毎日決められた分量を読むという方法が苦手なので、今回も、通読表は使わず、ふつうに創世記から読み始めた。そして、創世記から通してエステル記までを、三週間弱くらいで読んだ。

 モーセ五書や歴史書はストーリー性が高いので、どんどん読むのは苦にならない。むしろ、ぶつぶつ区切って読むよりも、ずっと読みやすいし、一気に読めばこそ、今まで見落としていたいろんなことに気づかされ、読んでいてとても楽しかった。読みながら、気になることがあればその都度立ち止まって、注解書を開いたり、Blue Letter Bibleで原語の意味を調べたり。語られることがあれば、そこで手を止め、祈りをもって思いをめぐらしたり書き留めたり。読む分量も期間も決まっていないので、いくらでも時間を費やせる。

 また、どんどん読むからといって、決して読み流すのでなく、むしろ物語の中にどっぷり入っていくことができる。おかげで登場人物の人間関係もよりよく見えたし、12部族のそれぞれの個性が見えてくるような気がして興味深かったし、民数記のように、今まではどちらかというと退屈に思えていた書も、それぞれの部族の人数が1回目と2回目の人口調査でどんなふうに変化したかとか(シメオン族だけ半分以下に減った!)、そんなところにも目を留めたりして、新鮮だった。

 そしてさばきつかさの時代、イスラエルに人間の王が立てられてからの時代、南北に分かれてからの時代、捕囚にとられ、帰還してからの時代ーーそれらの時代を通してのイスラエルの民の姿や、神様がどのようにイスラエルの民と関わってくださっていたかなどなど、これまでの数章ずつの読み方では気付けなかったさまざまなことに、新たに目が開かれた。

 一つ例をあげると、神様がいかにイスラエルの民に、「心を尽くし、いのちを尽くして」主を愛し、主に信頼し、主にすがって生きることを求めているかが、ものすごく心に迫ってきた。誰でも失敗してしまうことは確かにある。ダビデだってそうだった。でも神様が求めているのは失敗しないことそのものではなく、とにかく主を愛し、信頼し、すがることであり、失敗してしまったなら、それを認めて主の前にへりくだり、悔い改めて、もう一度主にすがり直せばいい。マナセのように神様を無視し、悪事の限りを尽くしていた悪王さえも、自分の過ちに気づいて主の前にへりくだったとき、神様はそれを受け入れてくださったのだ。なんと憐れみ深く、寛容なお方だろう! 

 さらに、神様は何度も言われる。「強くあれ、雄々しくあれ。恐れてはならない。」これはヨシュアに対してだけでなく、その後も何度も神様がイスラエルに言われた言葉だ。神様はとにかく、私たちに神様を信頼してほしいのだ。神が私たちと共におられることを、忘れてほしくないのだ。

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 さて、エステル記まで読んだら、そこから先の読み進め方は、ちょっと工夫してみた。ここまでは各書はほぼ時系列に並んでいるけれど、預言書は時系列に並んでいない。そこで、預言書はなるべく書かれた順番にそって読むことにした。つい先日まで、王たちの所業について読んでいたところなので、預言書に書かれていることが、ものすごくリアルに聞こえてくる。(ネットで、イスラエルとユダの王たちのリストと、それぞれの時代に対応する預言者の表を見つけて、それも参照している。)ああ、あの王がああいうことをしていたとき、神様は預言者を通してこのように語ってくださっていたのか、それなのに、イスラエルは、ユダは、それに応答しなかったのか、彼らの耳はどんだけ風穴なんだ!?…と胸が詰まる。

 そして、歴史書を読んでいたときは、神様ってやっぱり怖い、厳しいお方だなぁ…という印象を受けたのだけれど、預言書を読むと、ああ、神様はこんなにも切々と(時にはやっぱりかなり厳しいけれど)、イスラエルとユダに悔い改めを呼びかけ、愛を語っていてくださったのか、そしてこういう中で、将来へ向けての希望を語ってくださっていたのか、と泣けてくる。

 そして、ああ、この愚かなイスラエルとユダの姿が、しかし神様に熱烈に愛されているイスラエルとユダの姿が、どれだけ自分とだぶってくることか… 聖書に記されている神様の声が、今ここにいる私のところまで届いてくる。


 今のところ、預言書と並行して、週末には詩歌と知恵文学を読んでいる。旧約聖書を読み終えたら、福音書から使徒の働きまでを読み、書簡はそれぞれが書かれた順番に読もうと思っている。そして締めはもちろん黙示録。

 ちなみに、今はアドベントなので、こういう「大きなかたまり」での読み方とは別に、レクショナリーに従った箇所も読んでいる。それぞれの週に沿った箇所も読みたいから。

 この「大きなかたまり」で聖書を読むという方法、私、クリスチャンになってもう40年以上なのに、実は初めての体験。*^^*  すごく新鮮。章ごとに、節ごとに、じっくり読んだり学んだりするのとは違うダイナミクスがある。ライトが言うように、その両方が必要だということ、とても納得。神の物語としての聖書が、より身近になり、その物語の中に自分の物語を見出すとはどういうことなのか、なんとなく分かってきたように思う。