2ヶ月くらい前だったろうか、聖書学者のNTライトがシカゴ郊外にあるホイートン大学に来た。私は彼の講演を直接聴きに行けなかったけれど、そのときの彼のチャペルメッセージをオンラインで観ることができた。(ほかの二つの講演もYouTubeにアップされている。)今さらだけど、とてもインパクトのあるメッセージだったので、書き留めておく。

 トピックはヨブ記42章。

 苦しみに遭うとき、私たちはhappy endingを求める。しかし実際にやってくるのは、new beginning。ヨブがさんざん苦しみにあった後、ついに神からのことばを聞いたとき、彼は言った。

 "I had heard of you, but Now my eye sees you."
 「私はあなたのうわさを聞いていました。しかし今は、この目であなたを見ました。」

 ヨブは、これまでとは違う形で、これまでの彼にはなかった形で、神を知ることになった。
 
 この地に生きる中では、私たちはさまざまな苦しみ、痛み、問いにぶつかる。神がおられるならなぜ? 神が善いお方であるならなぜ? しかし、そのような問いにぶつかることは少しも恥ずかしいことではないし、それらの問いを問い続けることも、少しも恥ずかしいことではない。答えはいつか、思いがけないときに思いがけないところからやって来るかもしれない。それまで、問い続けつつ、忍耐を持って待つ。

 私たちは、大きな問題があると、すぐに解決できないとまずいのではないかと心配しがちだ。確かに中にはすぐに解決したほうがいい問題もあるだろう。しかし大きな問題の多くは、すぐに答えは得られない。その場合、私たちに必要なのは、忍耐を持つこと、もっと聖書を読むこと、自分を聖書の物語の中にもっと浸らせること、もっと祈ること、沈黙と静まりの中でもっと祈ること。ある特定の答えを得ようともがいていたけれど、そこで起こっているのは、何かもっと別のことなのかもしれない…

 それらの問いを問い続けるとき、答えがでないからといって、信じるのをやめるとか、祈るのをやめるわけではない。むしろ、「私はあなたのうわさを聞いていました」という、その場所にしっかりとどまる。今はまだわからない、まだ見えない、でも、神様、私はあなたの、偉大なるあなたのうわさを聞いています…  かなり長いあいだ待つことになるかもしれない。しかし、今自分がいる場所で、その段階で、必要なことは備えられる。求めている答えはまだこなくても、必要な導きは与えられる。

 「私はあなたのうわさを聞いていました」、しかし今しばらくは、何か新しいものを見せていただけるときが来るまで、待たなければならない。

 ヨブ記とは、知恵への挑戦。知恵への挑戦とは、真に人間であることへの挑戦。真に人間であることへの挑戦とは、神のより大きなナラティブ(物語)の中に、自分の居場所を見つけること。神のストーリー全体の中に生きるとは、そのストーリーがあなたに働きかけ、あなたを形造ることに委ねること。そのためには、聖書を大きなかたまりで読む。また、節ごとにじっくり学ぶ。あなたの問いを抑圧することなしに、問い続けつつ、聖書を読む。読みながら、どんな疑問が湧いてきても、恥じることはない。聖書を読みながら、突然やってくる聖霊の語りかけや促しを、聴き漏らしてしまわないように。「ここに、あなたの居場所がありますよ。聖書の物語のここが、少なくとも今しばらくの間、あなたが留まるところなのですよ。」

 キリスト者の召命を問うとは、究極的には、人間であるとは何を意味するのか、と問うことである。その答えは、さまざまな居心地の悪い問いを避けることによって得られるのでなく、それを問い続けつつ生きることによって与えられる。思いと心をみことばのうちにたっぷりと浸らせる。詩篇を読み、詩篇を祈る。福音書を読み、福音書を祈る。人間であることへの挑戦とは、究極的にはイエスという人にフォーカスされるものであるから。

 イエスこそ、真に人間であるお方。完全に神であり、完全に人間であるお方。そのお方が、天と地の境界に立たれ、その両方を危険なまでに近くに引き寄せ、そして私たちに言われる。「あなたに人間であってほしいのだ。危険なまでに天と地の境界に立ってほしいのだ。それは、あなたがすべての謎を解いたからではなく、すべての問いに対する答えを得たからでもなく、この地に神を反映する者になるという召しを聞いたから。神のかたちを担う者になるという召しを聞いたから。知恵ある者になりなさいという召しを聞いたから。」

 そして知恵ある者になるとは、ヨブが痛みをもって学んだことから始まる。主への恐れと敬意、それこそ真の知恵である。人間の召命とは、王に仕える祭司(royal priesthood)となることである。

 人間の召命の第一は、神とこの世界の間に立ち、被造世界の賛美を神に届かせ、この世界に神が注がれた恵みの良き管理者となること。それ以外の召命はどれも、この第一の召命から二次的に出てくるもの。
 
 私たちは「聖書」と呼ばれる驚くばかりのナラティブ(物語)の中に生きるよう命じられている。その物語は、神こそが知恵ある、善い創造主であることを私たちに教える。

 ヨブの物語を、イエスの十字架の祈りで終わるより大きなナラティブの中に置いてみよう。それは神ご自身の「ヨブ体験」だ。そのとき私たちは見出す。復活とは単なるハッピーエンドではなかったことを。それは、まったく新しい創造の始まりである。その新しい始まりは、私たちがすでに知っているこの世界と、すぐには見分けがつかないくらい重なっている。この地点こそが、私たちが恐れおののきつつ、こう告白するところなのだ。

「私はあなたの噂を聞いていました。しかし今は、この目であなたを見ました。」

 あるいはトマスの言葉でもいい。彼は復活のイエスを疑ったとき、その手の傷跡に触れてみるよう言われたが、実際にはその傷跡に触れることなしにこう告白した。

「わが主、わが神!」

これはトマスのヨブ体験だった。「何が起こっているのか、わかっているつもりでした。しかし今、ついに、私はあなたをこの目で見ました…」

 ヨブやトマスのように、私たちも聖書の大きなナラティブの中に、自分の場所を見つける必要がある。

 神はこの世界をご自分とは別個のものとして造られた。それはいつの日か、ご自身の臨在によって、御栄光と愛によって、この世界を満たし、溢れさせるためだった。そのとき、被造物全体が神を親しく、近しく知るようになる。水が海をおおうように、地は、主の栄光を知ることで満たされる……

 新約聖書はヨブの問いに、ヨハネ1:18(「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」で答えている。私たちが心を尽くし、いのちを尽くしてイエスの物語を、十字架と復活で終わるイエスの物語を生きるなら、そのとき、私たちは真理を見て、悔い改めることになる。そしてこう言うだろう。「ごめんなさい。私は間違った問いを尋ねていました」

 しかしイエスはペテロの失態を贖った(ヨハネ20、21章)。イエスに「わたしを愛するか」と聞かれたペテロは、「私はあなたの友であることを、あなたはご存知です」と繰り返し答えた。するとイエスは三度めには「ペテロよ、あなたはわたしの友ですか?」と尋ねた。ああ、ペテロはどれほど心が打ち沈んだことだろうか。イエスはもはや自分を信頼してくれないと思ったに違いない。しかし、イエスが言っていたのはそういうことではなかったのだ。イエスはペテロに(そして私たちすべてに)こう言われる。

「よろしい、それが今のあなたの状態なら、そこから始めましょう。さあ、ここにあなたの働きがあります。私の羊を飼いなさい」

 召命とは、このようにして始まるものなのだ。

 イエスは私たちにも問われるだろう。そして私たちは自分の心の奥底を探り、精一杯の答えを差し出すしかない。「主よ、私はここにおります。これが今の私です。あなたは私をご存知です…」


 神からの答えは、はっきりとそれとわかるようには来ないことが多い。むしろ、よそ見をしているとき、思いがけない方向から忍び寄ってくる。最初は気づかないかもしれない。しかし、突然気づき、あなたもまた主の前に膝をつき、こう告白する。

 「私はあなたの噂を聞いていました。しかし今は、何が起きているのかこの目で見ています」

 私たちが神の物語の中に生きるとき、これが起こるのである。イエスを私たちの物語の登場人物の一人にするのではなく、私たちがイエスの物語の登場人物の一人となるのだ。そのとき、すべてが突然違ったものに見えるだろう。 

 それはハッピーエンドだろうか。そのとおり。しかし、新創造は「幸せ」そのものを定義し直す。イエスの物語の中の登場人物の一人としての自分を見出すとき、聖書全体の物語の中に、新創造の物語の中に自分を見出すとき、自分が持っていたさまざまな問いや、なんとかして答えを出そうと躍起になっていたことを振り返り、私たちは主の前にこう言うだろう。

「私はあなたの噂を聞いていました。しかし今、私はこの目であなたを見ました。」

 そして私たちの物語はヨブのように灰の中に座って悔い改めるところで終わるのでなく、ペテロと共にこのように言って、新しい始まりの中に入っていく。

「はい、主よ、私があなたの友であることを、あなたはご存知です」