新改訳聖書三版の申命記6章で「心(heart)を尽くし、精神(soul)を尽くし、力(strength)を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」となっている箇所、また新約聖書では「心(heart)を尽くし、思い(soul)を尽くし、知性(mind)を尽くし、力(strength)を尽くして…」となっている箇所の「精神」または「思い」と訳されている部分が、 新改訳2017では「いのち」に改訂されているのを発見! 欄外には「たましいのすべてをもって」と注釈もついている!

IMG_3889

 この部分、ヘブライ語ではnephesh、ギリシャ語ではpsyche。とするとやっぱり、「たましい」か「いのち」のほうが、「精神」や「思い」より適切な訳のような気がするので、なんだか嬉しい。(創世記2:7の、神様が地のちりで形造られた人の鼻に息を吹き込んだら「生きるもの」になった、の「生きるもの」は、英語では「living soul (nephesh)」。)

 ちなみに、この箇所での「心」と「いのち(たましい)」「知性」「力」のそれぞれの意味は、Blue Letter Bibleで調べたら次のとおりだった。自分用にメモ。(ギリシャ語の場合)

「心」:kardiaκαρδίαthe seat and center of all physical and spiritual life, マタイ22:37、マルコ12:20、ルカ10:27の文脈では、of things done from the heart i. e. cordially or sincerely, truly (without simulation or pretence)

「いのち」:psycheψυχήthe soul,  the seat of the feelings, desires, affections, aversions

「知性」(マルコ12:30、ルカ10:27)「知力」(マタイ22:37):dianoiaδιάνοια the mind as the faculty of understanding, feeling, desiring (マルコ12:33では、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして」となっていて、ここの「知恵」は synesis:σύνεσιςthe understanding)

「力」:ischysἰσχύςability, force, strength, might 


 

 ということは、意味的には「心」も「いのち(たましい)」も「知性」も、それぞれに重なる部分があり、この箇所は人間を構成するそれぞれの部位(?)を列挙しているかに見えるけれど、むしろ、同じことをちょっとずつ違う言葉を用いて表現することで、「
自分という人間のあらゆる領域において、自分の存在のすべてと、なし得る限りのすべてを尽くして、誠実に精一杯主を愛せよ」というメインポイントを、より深く、より包括的に強調しているのかな。
 
 申命記などを読んでいると、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「主にすがりなさい」と何度も繰り返されている。神を信じるということは、神を愛する、すなわち神様に信頼を置き、神様に忠誠を誓い、神様に付き従っていくことなのだということが、なんだかすごく心に迫ってくる。そして、「隣人を愛する」ことが、これと並んで重要だとは、改めてチャレンジを受ける。