私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(1ヨハネ3:1−3)

 今日は教会暦では「諸聖人の日」。カトリックではすべての聖人と殉教者を記念する日。

 NTライトは"For All the Saints?"という本で、「諸聖人の日」はカトリックで列聖された聖人と殉教者だけでなく、キリストにあって亡くなったすべての人を覚える日でいいのではないか、というようなことを言っていた。特別なすでに亡くなったクリスチャンだけでなく、すべてのすでに召されたクリスチャンを覚える。パウロも、イエスの母マリアも、マザーテレサも、うちのみんも。

 ライトは、この本ではいくつかのカトリックの習慣を批判して(というか、それが聖公会に入ってきつつあることを憂慮して)いる。まず、亡くなったクリスチャンに聖人とそうでない人のランクの違いはなく、神の御前にみな同じであること。したがって、生きているクリスチャンが聖人にとりなしの祈りをする必要はないはずだ、と。そのような習慣は、イエスがすべてのクリスチャンのために成し遂げてくださったこと(イエスを通して、一人ひとりのクリスチャンが直接神に祈れるようになったこと)を無にするようなものである、と。それから、煉獄批判(煉獄とは、カトリックの考えで、 天国に入る前の死者が、さらなる浄化のプロセスを通る場所とされている)。カトリックだけでなく近年のプロテスタントの間でも、煉獄をもう少し受け入れやすくしたような類似した考えが起こっていることを心配しているようだった。

 近年のプロテスタントの間で起こっている煉獄と似た発想のものというのは、私も何度か聞いた(読んだ)ことがある。私たちが生きている間に霊的形成のプロセスをどれだけ通ったとしても、死ぬまでに完全にイエスに似たものに変えられるのは無理なので、死後もなお、霊的形成のプロセス(巡礼)を続けるのだろう、みたいな話。初めてそれを聞いたときは「なるほど」と思ったけれど、やっぱり違うと今は思っている。

 パウロは、ローマ書で「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です」と言っている。またコロサイ書では、それらの罪は「地上のからだの諸部分」にあり、私たちのいのちはキリストのうちに隠されてある、と言っている。

 ライトは、イエスを受け入れて義と認められたあとも、からだに住み着いている罪が私たちにまださまざまな影響を及ぼすけれど、肉体が死ぬときに、それらの罪はこの朽ちるからだと一緒に滅びる、生きている間に私たちを苦しめていたさまざまな罪深い性質をひきずってパラダイスに入ることはない、したがって死後にさらなる浄化のための煉獄(霊的形成の旅路と呼ぼうと何だろうが) を通る必要はない、煉獄のような浄化のプロセスを通るのは、むしろ生きている間の、今の私たちのこの地上での人生である、というようなこと(かなり要約しました)を言っていた。

 「諸聖人の日」から話がずれたけれど、「諸聖人の日」とは、いわば「我は聖徒の交わりを信ず」と私たちが告白していることを祝う日とも言えるのかもしれない。

 去年の6月に書いたこのブログ記事を思い出す。

 二日目の晩は、ちょうど日の沈む時刻に、屋外にあるラビリンスを皆で歩いた。もちろん無言で。リーダーたちがラビリンスの周りにロウソクを並べておいてくれたので、日が沈んで暗くなっても道がわからなくなることはなく、とても幻想的だった。

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 15人が、少しずつ時間差で、一人ずつラビリンスの中に入っていく。真ん中まで到達すると、それぞれ、必要なだけそこにとどまって静かに祈る。そして、外に出ていく用意ができたら、また同じ道をたどって外に戻っていく。先に歩き終わって外に出た人たちは、ラビリンスの周りを囲み、まだ歩いている人たちを黙って見守る。そのときのことについて、最後のシェアリングのとき、ある姉妹がこのように言った。「まだラビリンスを歩いている人たちを、先に歩き終えた人たちが黙って見守る様子は、ちょうど一足先に主の元に帰った聖徒たちが、まだ地上で人生の旅路を歩んでいる私たちを見守っているかのようだと思いました。」

 それを聞いて、みんの闘病中に慰めをいただいていたヘブル書の御言葉を思い出し、私もまたなんとも言えない平安を覚えた。

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。(ヘブル12:1)
 
 この箇所では、ヘブル書の記者は人生を「競争(レース)」にたとえているけれど、それは競い合うという意味の競争ではないのだろうと思う。むしろ、一人マラソンというか、山登りというか、クロスカントリーのような… いや、一人マラソンではないね。みんなで走っているのだから。ただ、勝ち負けは関係ない。  そして、今、みんもまた、雲のように私たちを取り巻く証人の一人に加えられたことを、感慨深く思う。みんのためにも、しっかり歩まなくちゃ。

諸聖人の日。すでに亡くなっている聖徒も、今まだこの地に残されている聖徒も、自分の周囲にいる聖徒も、自分が行ったことのない、名前も知らない土地にいる聖徒も、迫害を受けている聖徒も、肌の色が違う聖徒も、私たちがみな、キリストにあって一つであることを覚え、それを祝う日… と思ったりする。

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