お返事ありがとうございます。

そちらはまだ暑い日が続いていたのですね。一昔前に比べ、残暑が長く続くようになった気がしますね。

○○の修道院に行かれたのですね。日常と離れた環境で、静かに神様と向き合えるのはいいですよね。

私も今日の午前中、うちの近所(といっても車で30分くらいですが)にあるフランシスコ会の修道院に行ってきました。時々、祈りにったり、いろんな集まりに参加したりしています。今日は、Tending the Holy(聖なるお方に仕える、聖なるものに注意を払う)というトピックの集まりでした。

日々の生活の中にある主の御臨在に注意を払うこと、自分が握りしめているものから手を離すこと、そして主がなさらんとしておられること、主が与えんとしておられるものが、その手放したスペースに現れてくるのを見守ることについて、シスターのお話を聞きました。そして、皆で祈りました。


現代社会では、いつもきちんとしていなくてはならない、という暗黙のプレッシャーがありますが、主の前に出て、握っていたものを手放すためには、ときにはWe may have to fall apart(バラバラに崩れ落ちなくてはならないかもしれない)と言われ、私は思わず涙してしまいました。Something is trying to emerge. Something is trying to happen. When that happens, the walls need to crumble down.  Take life on its own terms. Surrender to God of Mystery...と。

私も、なるべく自然体で、悲しいときには悲しみ、楽しいときには楽しもうと思っているのですが、心や体のどこかで、無意識のうちにも無理をしている部分があるようで、時々ものすごく疲労感を覚えることがあります。崩れ落ちるなら崩れ落ちてもいいじゃないかと、気長にゆっくり、神様に助けていただきながらやっていこうと思わされました。


さんも疲れを覚えておられたのですね。人と会うと、やっぱり疲れてしまう部分もありますよね。そんなときには、無理せずにお休みするのがいちばんですから、□もお休みなされてよかったです。一方で、人からもらえる活力や励ましも確かにありますから、できるときには人と会うのも大事ですよね。

悲しみは時間とともに薄らいでいくのかと思ったら、そんな単純なものではないですね。悲しみはむしろ、波のように、潮の満ち引きのように、押し寄せてくると思えば、いつの間にかまた引いている… でも引いているからといって、それでもう大丈夫になったかと言えばそんなことはなく、またドッと襲ってくることもある…

私も、今でもまだ、時々刃物で刺されるような鋭い痛みを心に覚えることがあります。それが、なんの脈絡もなく、突然やって来るのです。でも、以前に比べれば、頻度は確かに減ってきているかもしれません。以前はもっと、四六時中、鈍い痛みがずっとあるような感じだったように思います。子供を失った悲しみ自体はなくならないけれど、感じ方は変わっていくと多くの人に言われましたが、やはりその通りのようです。

しばらく前に友人が、『死別の悲しみを超えて』(若林一美 著)という、我が子を失った人たちの声を集めて、死別の悲しみからの回復について考察し、生きる意味を探っている本を送ってくれました。身につまされる部分が多く、途中で何度も読めなくなってしまい、読み終えるのに時間がかかりました。

その中に、「遺族の多くは、少し元気に前向きに歩けそうだと思っていても、次の瞬間、奈落の底にひきこまれるような孤立感におそわれ、立ちすくんでしまうような日々の繰り返しの中に身を置いている。」というくだりがあり、ああ、本当にそのとおりだと思いました。

また、こういうくだりもありました。
「悲しみは消えるものではないが、悲しみを持つ自分のみつめ方が変わることで、生き方が変化し、自分や他人が存在することを認めるその仕方にも違いが出てくるのである。たとえ体験は同じでも、百人百様の悲しみがあることに思いが至った時、内なる悲しみは、他者へのやさしさへと変わっていく。別れの時は、出会いの時でもある。」
私の内なる悲しみも、他者へのやさしさへと変えられていきますようにと、祈らされました。

主が今日も、さんの旅路に伴ってくださいますように。主の助けと優しい憐れみが、さんとともにありますように。

祈りつつ

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