今、『死別の悲しみを超えて』(若林一美 著)という、我が子を失った人たちの声を集めて、死別の悲しみからの回復について考察し、生きる意味を探っている本を、少しずつゆっくり読んでいる。(Mさん、ありがとう。)
 
 今日は、その中からちょっとだけ引用。

 死別は恥ずかしいことでも、ましてや隠すべきことでもないにもかかわらず、遺族は社会生活のあらゆる場面で、居心地の悪さを感じて暮らしている。悲しみや涙を自由に表出できない社会は、一体だれのためのものだろう。
 涙は、死んでしまった人に対する心情のもっとも自然な表出である。そして、死んでしまったけれど、忘れることができない人を慕うやさしさのあらわれでもあるのだ。
 心にのこる遺族の言葉がある。
 「忘れることは、おもいきり思い出してやることだ」

 表現としては適切ではないかもしれないが、社会は悲しい人、弱い人が好きではない。そのため悲しみを背負った人たちが社会生活にもどる時、それなりの気負いと、感情をおおいかくすための表情を身につけなければならないと感じるのだ。もう悲しくない、というふりをしたり、強がってみないと仲間はずれにされてしまうような気がしている人たちは多い。
 悲しみそのものは、その人の心の持ちようによって変化するものではあるが、現在の社会では、その傷口は癒されるよりむしろ、深く広くえぐられていくことが多い。
 愛する人を失った嘆きは、表面的な表れ方は変化していくにしても、終生消えることはない。……

 悲しみが生じた瞬間から、時間の流れによって悲しみの表われ方が変わっていくこと、また悲しいことは悲しいと表現することの大切さを、リンデマンは実感する。そして悲しみは、周囲の人たちの納得のいくような表われ方をするとは限らない。

 悲しみは消えるものではないが、悲しみを持つ自分のみつめ方が変わることで、生き方が変化し、自分や他人が存在することを認めるその仕方にも違いが出てくるのである。たとえ体験は同じでも、百人百様の悲しみがあることに思いが至った時、内なる悲しみは、他者へのやさしさへと変わっていく。別れの時は、出会いの時でもある。
 
 遺族の多くは少し元気に前向きに歩けそうだと思っていても、次の瞬間、奈落の底にひきこまれるような孤立感におそわれ立ちすくんでしまうような日々の繰り返しの中に身を置いている。

 だれの言うことも、まるで興ざめだ。それなのに私は、他の人たちがまわりにいてほしい。CSルイス『悲しみをみつめて』 

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(2001年。イギリスにて。みん七歳、ま〜や四歳)