I believe that God prays in us and through us, whether we are praying or not (and whether we believe in God or not). So, any prayer on my part is a conscious response to what God is already doing in my life.

(神は、私たちの中で、また私たちを通して、祈られるにちがいない。私たちが祈っていようといまいとも、そして私たちが神を信じていようといまいとも。だから、私が祈るどんな祈りも、神がすでに私の人生の中でなさっていることに対する、意識的な応答なのだ。)

Malcolm Boyd

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マルコム・ボイド(1923-2015):聖公会(エピスコパル)司祭。フリーダムライダー(公共交通機関の人種差別を撤廃させた非暴力不服従運動)の一人として公民権運動に、また70年代には反ベトナム戦争運動に関わる。日常会話的な口調の祈祷集として知られる"Are you running with me, Jesus?"の著者。(邦訳「走者イエス」新教出版1976年)

It's morning, Jesus. It's morning, and here's that light and sound all over again.

I've got to move fast... get into the bathroom, wash up, grab a bite to eat, and run some more. 

I just don't feel like it. What I really want to do is get back into bed, pull up the covers, and sleep. All I seem to want today is the big sleep, and here I've got to run all over again.

Where am I running?  You know these things I can't understand. It's not that I need to have you tell me. What counts most is just that somebody knows, and it's you. That helps a lot.

So I'll follow along, OK?  But lead, please. Now I've got to run. Are you running with me, Jesus?


朝です、イエス様。朝です。あの光と音が、再びやってきました。


大急ぎで動かなくてはなりません……洗面所に行って、顔を洗い、簡単に食事を済ませ、今日もまた走ります。

でも、あまり乗り気ではありません。本当は、ベッドに戻って、ふとんをかぶり、寝たいのです。 今日はただたっぷり寝たいのです。それでも、今日もまた走らなくてはなりません。

どこへ走っていくのでしょうか。私にはわかりません。でもあなたはご存知です。私に教えてほしいわけではありません。誰かがわかっていればそれでいいのです。そしてその誰かとはあなたです。それさえ知っていれば、私には十分です。

ですから、ついていきます。いいですか? でも、ちゃんと導いてくださいよ。よろしくお願いします。さあ、走ります。私と一緒に走っておられますか、イエス様? (私訳)


 "Are you running with me, Jesus?(私と一緒に走っておられますか、イエス様?)"というタイトルについて、『Am I running with you, Jesus? 私はあなたと一緒に走っていますか?』であるべきではないのか、と聞かれることがよくあったそうだ。実は私もこのタイトルを見たとき、「あれ?」と思った。しかし、『私と一緒に走っておられますか?』のほうが、自分の霊性の状態を正確に表しているのだと著者は言う。自分は罪深く自己中心的な人間で、自分のことばかり考え、神を操作しようとし、自己愛と自己憐憫に浸ってしまうことがよくある者なので、「私と一緒に走っておられますか、イエス様?」のほうが、自分の在り方を正確に反映しているのだ、と。

 この自己認識。敬虔の衣をまとうことはいとも簡単だけれど、神様の前に正直でオーセンティックな自分を持って出ていくのは、案外難しいのかもしれない。というか、おそらく自分でも無意識のうちに、作られた自分で神様の前に出てしまうことが多いのではないかと、ふとそんな気がした。

 もちろん、Book of Common Prayerの祈りのように、伝統的にクリスチャンの共同体の中で祈られてきた祈りも素晴らしく、慕わしいのだけれど。 

 会話的な祈りであれ、リタージカルな定型の祈りであれ、「私が祈るどんな祈りも、神がすでに私の人生の中でなさっていることに対する、意識的な応答」として出てくるものでありますように。

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鉢植えのレモンの木。 今頃つぼみが膨らみ始めた。