月曜日の晩にカリフォルニアから戻りました。
 多くの方々のお祈りに支えられ、とても祝された修養会、カリフォルニアの旅となりました。
 今回の修養会のテーマは、「祝福の基となる こぉーんな生き方あったのか」で、ハワイのホノルル教会の関真士先生が御言葉から全部で四回のメッセージをしてくださいました。私も個人的に多くを語られたのですが、その中でも特にひとつ、深く深く心に響いたことを書き留めておきたいと思います。


 主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり
(創世記39章2節)
 

 父に溺愛されたヨセフは、十人の兄たちから妬まれ、殺されかけたあげくエジプトに奴隷として売られた。それのどこが「幸運」なのか? この「幸運」にあたるヘブル語の単語の意味は、「成功した」「繁栄した」という意味でもあるらしいけれど、奴隷として売られておいて、「成功した」「繁栄した」と言われても… しかし聖書は、「主がヨセフとともにおられたので」と言う。
 奴隷として成功した「幸運な人」となったヨセフはその後、自分の主人となったポティファルの妻に言い寄られた。断って逃げたのに、レイプ未遂だと言われて牢屋に放り込まれた。 牢屋でも、王の見た夢を解き明かし、早くに牢屋から出してもらえるように願ったのに、すっかり忘れ去られてしまった。それのどこが「幸運な人」なのか。

 しかし「主がヨセフとともにおられた」のだ。 

 主がともにおられるとは、私たちの目から見た幸せや成功や繁栄の「理由」や「原因」ではなく(そういう次元での成功が与えられることもあるだろうけれど)、それ自体が幸せなのだ。そのように思わされた。

 これを書きながら、ふと、闘病中のみんの言葉を思い出した。ステージ4のガンの宣告を受けて数ヶ月たったときのことだった。彼女の心は穏やかで、みなさんからの愛と祈りを受け取って、神様からも「I haven't forgotten my daughter Miho」と語りかけを受け、彼女はこう言った。「Even though I now have cancer, I am happier than before. 今はガンになったけれど、(うつで苦しんでいた)以前よりも幸せ」。ホスピスケアのために自宅に戻ってきたときも、お見舞いに来てくださった方たちに言っていた。「I am happier everyday.」 主がみんとともにおられたのだ。みんが亡くなってから、彼女のジャーナル(日記)を覗いたら、神様への祈りが手紙風にいくつか書き留められていて、どの祈りも「Your daughter, Miho」で締めくくられていた。みんは、自分が神様に愛されている神様の娘であるとよく自覚していた。いろいろな苦しみを通った中でも、自分が神様の娘であると知っていた。神様がともにおられると知っていた。だから彼女はhappier everydayだった。人の目には、サクセスフルでもなんでもなかったけれど、それでも彼女はhappier everydayだった。

 みんは最後まで神様を信頼していた。亡くなる前々日だったか、あの子は夫に尋ねたそうだ。「神様は、私のこと癒してくださると思う?」と。
 みんが、自分のこの地でのいのちの灯火が消えていくその最後の瞬間にも、「I love you」と私たちに伝えようとしてくれたことが、ずっと心に残っている。そして今、ふと思うのだ。もしかするとそれは、神様に向けての言葉だったのかもしれない、と。みんを御腕に抱きとろうとなさっている神様に、I love youと応答したのかもしれない。それは、「癒されたい」という自分の願いを手放して、神様の愛に自分を完全に委ねた言葉だったのかもしれない。

 主がともにおられるということ。それに勝る幸せ、幸運、成功、繁栄があるだろうか。
 私は娘を喪った。その前後でも、いろいろなところ、いろいろな思いを通った。しかしそのすべての瞬間において、主が私とともにおられた。今もともにおられる。だから私もまた「幸運な人」とされているのだ。関先生のメッセージを聴きながら、そのことが深く心に響いた。

 今回の修養会でも、多くの方たちと出会った。みなさん、それぞれにいろいろなところを通り、さまざまなものを抱えておられた。その中でも、主に信頼し、主を仰ぎ見、主に向かって歩んでおられた。その方たちお一人おひとりとも、「主がともにおられる」ことを実感した。 

 主よ、感謝します。


 IMG_2944
修養会の会場、ウェストモント大学のキャンパスにて。