先週のスピリチュアル・ディレクションのセッションでのこと。

 私が最近いろいろ思わされていることや気にかかっていることなどについて分かち合うと、スピリチュアル・ディレクターのWは「TTH(私が受講したスピリチュアル・ディレクションのコース)の卒業リトリートのテーマが何だったか、覚えていますか?」と。Wも同じコースの卒業生(私より10年以上先輩だけど)。

「Travel light (身軽に旅をする)でした」と私が答えると、「そうですね。リトリートの初めに、寸劇みたいなのはありましたか?」

「寸劇? いいえ、なかったと思います」

「私のころは、卒業リトリートの最初に、こういう寸劇を見せてくれたものでした」

 その寸劇(と呼ぶのがふさわしいかわからないけど)では、 皆が輪になって座っている真ん中にテーブルがあり、そこには、主との歩みにおいて、私たちが大切にしているさまざまなもの、さまざまなお気に入りのコンパニオンが置かれている。このコースの講義ノートを綴じた分厚いバインダー、テキストに使われた何冊もの本、霊想書、ロウソク、手に持って使える小型ラビリンス、ロザリオ、そして聖書など…

 そして、このコースのディレクターたちが、テーブルの上のものを一つずつ取り去っていく。最後には聖書が残るが、それも取り去ってしまう…

 私はそれを聞いて、思わず「ええーー、聖書も取り去っちゃうんですか? 福音派が聞いたら目をむきそうですね」 と言った。そう言う私がすでに目をむいていたかも。汗(このコースは福音派プロテスタントの団体の主催だけれど、受講者にはカトリックの人たちも大勢いる。)

 聖書も取り去ってしまうとは、ちょっとリスキーでは?と思ったけれど、おそらくここで意図されていたのは、特定の流儀の聖書解釈に縛られない・固執しない、ということだったのかもしれない。つまり、「聖書のみ」「聖書信仰」と称して固守している自分の解釈や考えからも手を離してみる、ということだったのかも。

 キリスト教(プロテスタント)のアイロニーは、「聖書のみ」という本来なら一致をもたらすはずの信条が、逆に多くの摩擦や分裂を生んできたことかもしれない…


 ここしばらく第二コリント4章の土の器と宝の箇所に思いを巡らしている。最初は6−7節あたりだけを味わっていたのだけれど、そのことをスピリチュアル・ディレクターに言ったら、その先も読んでみましょうか、と。長い箇所だったけれど、レクツィオ・ディビナのように読んで、黙想してみた。「土の器」と「宝」、衰えゆく「外なる人」と日々新たにされる「内なる人」、「見えるもの」と「見えないもの」、「一時的なもの」と「永遠に続くもの」。

 主の御顔に思いを馳せつつ、今なお反芻している。
 
 Travel light...

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庭の紫陽花が咲きました。