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 先日少しだけ引用した十字架のヨハネによる「魂の暗夜」という詩、気になったので全文を調べてみた。もともとスペイン語で書かれたものなので、英訳にもいくつかのバージョンがあり、複数のものを照らし合わせつつ、自分なりに日本語に訳してみた。


魂の暗夜 8つのスタンザ

1.
ある暗い夜、
愛にこがれて
心が燃えたち
ーーああ、なんという幸せーー
私は誰にも気づかれないように出ていった
わが家は、今や静まっている

2.
暗闇の中、安全に
隠された秘密のはしごで
ーーああ、なんという幸せーー
闇に紛れて、身を隠しつつ
わが家は、今や静まっている

3.
この幸いな夜、
こっそりと、誰にも見られることなく
私も何ものにも目もくれず
灯りも、導く者もなく
ただ心に燃える光だけを頼って

4.
その光は私を導いてくれた
真昼の光よりもしっかりと
私がよく知っている
あのお方の待つ場所へと
ほかには誰もいないあの場所へと

5.
ああ、私を導いてくれた夜よ
暁よりも麗しい夜よ
恋人をその愛する人と
結び合わせる夜よ
愛する人に包まれて、恋人は変えられていく

6.
ただあの方のためだけに
守ってきた私の花咲く胸の上に
あの方は頭を乗せて眠る
杉の木の枝に扇がれたそよ風の中で
私は彼を優しくなでる

7.
やぐらからそよいでくる風に吹かれ
彼の髪をかき分けていると
その優しい手が
私のうなじを打った
私の感覚はすべてなくなってしまった

8.
われを忘れてみじろぎもせず
愛する方に頭をもたれかける
すべてが止まり、私は身を委ねた
思い煩いも
百合の花の中に置き去りにして
 
(中村佐知 私訳)

 びっくり、まるで雅歌の世界。これが十字架のヨハネにとっての「暗夜」だったのか。なんと甘く官能的であることか。でも、当然かもしれない。これは、彼にとっての神との合一に至る道だったのだから。


 十字架のヨハネが「魂の暗夜」を「暗夜」と呼ぶのは、それが暗く、辛く、苦しい体験だからではない。彼は、カルメル修道会の霊的刷新をはかろうとしたときに、仲間の修道士たちに理解されず、激しく弾劾され、拉致されたあげく修道会の牢獄に幽閉されるという、確かに苦しい目にあった。しかし彼が自分の霊的歩みを「魂の暗夜」と呼んだとき、そのような人生の苦難を指したのではなかった。そうではなく、神のもとに向かう体験とは私たちには明確にはわからない、不明瞭でぼんやりとした道のりだから、「暗夜」なのだそうだ。その過程では、私たちがこれまで神との関係を築いてきた中で、頼りにしてきたさまざまなものが削ぎ落とされていく(「感覚の暗夜」)。だから、確かに痛みや苦しみも伴う。混乱や困惑もあるだろう。神様に見放されたような、そんな不安や恐れにも襲われる(「霊の暗夜」)。 これまで私たちを神へと導いていた、しかしそれ自体は神ではないものが、削ぎ落とされていく。私と神の間にあったものが、すべて取り除かれる。その中で、神と出会う。それはちょうど、花嫁が花婿と結び合わされる夜のような、そういう意味での暗夜なのだそうだ。私は先日、今私が通っているのは「暗夜」だろうかと書いたけれど、そんなすごい体験はしていないなぁ…

 スペイン語ではどういう言葉が用いられるのか知らないけれど、「暗夜」の「暗」の部分は、英語で言うと「dark」よりも「obscure」(複雑でわかりにくい、意味不明、ぼんやりしている、薄暗い)のほうがぴったりくるみたいだ。 まず神ご自身が、私たちにとってはとうてい完全に知ることのできない("unknowable")、その意味でobscureなお方だから。リチャード・ローア(フランシスコ会司祭)の言葉を借りれば、神がunknowableであるとは、むしろ"infinitely knowable"な(つまり、無制限に知ることができるーーここまで知ったら知り尽くしたという制限がない)お方だということでもある。あまりにも大きく広く深く複雑であるお方を、すべてを超越し、しかしすべてのうちにおられるお方を、私たちには完全に理解し、把握し尽くすことなどとてもできない。神様はこういうお方なのだ!とわかったと思っていると、今まで知らなかった神様の別の側面を見せられ、驚かされる。神様が"infinitely knowable"であるとは、神様を知ることが一切できないという意味ではなく、むしろいろいろな方法で神様のいろいろな部分を知ることはできる(神様はご自身を表してくださる)、ただ、それが神様の全貌ではない、ということなのだろう。

 そして、神様がobscureであるだけでなく、その神様のもとへと向かっていく道のりもまた、私たちには完全には知りようのないobscureなもの。神様が私たちのうちでなさる働きとは、実は私たちが「こうだ」と思っているものとは別のところで、別の形でなされているものなのかもしれない。私たちの霊的歩み、霊的成長、霊的変容、聖化(十字架のヨハネの言葉では「浄化」)とは、私たち主導ではなく、あくまでも神様主導のものだから…

 コロサイ3:3−4のメッセージ訳を思い出した。

Your old life is dead. Your new life, which is your real life—even though invisible to spectators—is with Christ in God. He is your life. When Christ (your real life, remember) shows up again on this earth, you’ll show up, too—the real you, the glorious you. Meanwhile, be content with obscurity, like Christ.


Meanwhile, be content with obscurity, like Christ.