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 ケンを学校に送り届けてからの朝の20分。庭の一角を見渡せる場所に座って(暖かければ外に出るけれど、寒かったり雨が降っていたら部屋の中から)、センタリングの祈り。

 センタリングの祈りとは観想的な祈りの一つの方法で、言葉もイコンなどの画像も用いずに、静寂の中で、自分の思いを空にして神様の前に出るという祈り。祈りの言葉ではなく、自分の思考を放棄して神の前に出ていくこと自体を、祈りとして主に捧げる。

 言葉も画像も用いないのは、それらが思考を促すからだろう。センタリングの祈りは、いわば「聖なる思考停止」だと私は理解している。人間のマインド(頭)は、絶えず忙しく何かを考えている。ウィリアム・ジェームスという心理学者はそれを「意識の流れ」と呼んだ。ときにはポカッと抜けたように何にも考えていないときもあるけれど、たいていの場合は、頭の中では何らかの思考が働いているものだ。思考といっても、必ずしも理路整然としたものではなく、むしろ右へ左へと脈絡もなく、落ち着きなく、浮かんでは流れて消える種々雑多な思いだろうか。

 デカルトは「我思う、ゆえに我あり (I think therefore I am)」と言った。人間、特に現代人にとっては、思考とは自分を自分たらしめるもの、自我の真ん中に陣取っているものなのだろう。センタリングの祈りは、その「我思う」の部分を、毎日一定の時間(20分とか)、偉大なる「I AM(わたしはある)」というお方の前に手放し、捧げるものだ。そうやって、小さな、ブロークンなI amが、永遠の愛なるI AMの前に安らぎを得る。

 もちろん、思考は神様が人間に与えてくださった大切な賜物であり、私たちは思いを尽くして神を愛するよう造られているけれど、その思考が私たちと神様の間に立ちはだかり、神様とつながること、神様から聴くことを阻んでしまうことが、どれだけあるだろうか。だから、霊的修練として、1日のうちのある時間、主の前であえて「思考停止」させる。そうすることで、残りの1日の私の思考は、より神様にtune inしたものになるかもしれない。

 センタリングの祈りの運動を始めたトーマス・キーティング司祭の方法では、この祈りでは目を閉じるらしいけれど、私はあえて、フォーカルポイントとなるものを見つめる。(私が初めてこの祈りを習ったとき、目を閉じると寝ちゃう人もいるので、ロウソクの灯などを見つめるのもいいですよ、と言われ、それが私にとってのデフォルトとなった。)以前はロウソクの灯だったけれど、最近は、上の景色の奥の塀につけた小ぶりの十字架を見つめている。
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 長さ25センチほどの陶器の十字架で、アイルランドの作家さんの作品らしい。 十字架全体にぶどうと蔓、そしてユリの花があしらわれ、真ん中には天から下る鳩。

 陶器の感じが転がされたイエスさまのお墓の石を思い出させる。すがすがしい復活の朝を思い起こさせる。さらに天からの鳩は、私たちに御霊が与えられていることの象徴。また、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」という御父のことばのリマインダーでもあるだろうか。

 しかし実際に祈るときは、遠目に見えるだけなので、こういったディテールが私の思考をかき立てることはない。

 この十字架を見つめながら、主の前に静まる。静まりの最初には、
O God,  unto whom all hearts lie open unto whom desire is eloquent and from whom no secret thing is hidden; purify the thoughts of my heart by the outpouring of your Spirit that I may love you with a perfect love and praise you as you deserve. Amen

 という、『不可知の雲』からの一節を読む。それから沈黙の開始。
 そして20分の終わりには、申命記30節11、14節を読む。(始まりと終わりをどうするかは、人それぞれ。これはあくまでも私の場合。)

 センタリングの祈りでは、始める前に自分にとっての「聖なる言葉」を決める。「聖なる言葉」といっても、言葉自体に何らかの力があるわけではなく、祈りの途中で思いがあっちこっち行ってしまったときに、思いを神様に戻すために心の中でそっと唱えるもの。一種の錨のようなものだろうか。

 「聖なる言葉」は毎回違うものを使うのではなく、いつも同じ言葉を用いる。そうすることで、日常生活の中で自分の思考が暴走して、心が騒がされるようなこと、思いが集中できなくなるようなことがあっても、その「聖なる言葉」をつぶやくことで、神様にもう一度思いを戻す助けとなる。

センタリングの祈りは、意識を空にすることに強調があるのではなく、湧いてくる思いを手放して、何度でも神に向き直るところに強調がある。それが、せわしない思考の奴隷になることなく、御霊の中にとどまり続けるための訓練になるのだろう。ある婦人が「私は観想的な祈りをしていると、数千もの思いが絶えず湧いてきて、ちっとも神に集中できないのです」と言ったとき、キーティングは、「何と素敵なことでしょう。神に戻る機会が数千回!」と答えたそうだ。実際、私もセンタリングの祈りをしている20分間のほとんどは、何らかの思考にハイジャックされそうになるところから、聖なる言葉を心の中で唱えて神様のもとに戻る、ということを繰り返している。

 センタリングの祈りに成功も失敗もない。今日はうまくできたとか、今日はだめだった、というものではない。とにかく時間を取って、主の前に出る。そこに意味がある。…と私は教えられた。だから、自己主張の強い「我思う」との鬼ごっこのようになるとしても、あえて毎朝、聖なる思考停止の練習をしている。