山﨑ランサム先生のブログを読んでいて、引っかかったこと。

…パウロはまたキリストとその福音のために苦しむ生き方を教えていますが(2コリント1章5節、4章10節、2テモテ1章8節など)、それはまさに復活の力によって生きる生き方にほかならないとボイドは論じます。

ただし、私たちがキリストとともに耐え忍ばなければならない「苦しみ」とは、愛する者を失ったり、不治の病にかかったりというような、この世における「通常の苦しみ」のことではないとボイドは言います。もちろんそのような種類の苦しみも神の御手に委ねて行く必要があり、神は私たちとともに働いて苦しみから善を生み出すことがおできになります。その意味でそういった種類の苦しみが私たちを成長させることも確かにあります。けれども、私たちがキリストの似姿に変えられていく過程でどうしても通らなければならない苦しみ、新約聖書が語っているような「キリストとともに苦しむ」種類の苦しみとは、キリスト者に特有の苦しみ、キリストに従うがゆえに起こってくる種類の苦しみだとボイドは言います。そこには日々古い自我を十字架につける苦しみから始まり、クリスチャンであるがゆえに周囲の人々から拒絶されたり疎外されたりする苦しみを含み、人によっては明確な迫害、拷問、死などに直面することもあります。これらはみな「キリストとともに受ける苦しみ」なのです。キリストの十字架と復活が私たちに約束しているのは、このようにキリストと苦しみをともにしていくなら、私たちは最終的には彼とともに勝利し、統べ治めるようになるということです。それと同時に、十字架と復活は、イエスのやり方で悪に立ち向かうことこそが最終的には勝利するということを示しているのです。

 
 キリストとその福音のために苦しむ生き方とは、復活の力によって生きる生き方、というのは、とても納得する。でも、「キリストとともに耐え忍ぶべき苦しみ」とは、キリストに従うがゆえに味わう苦しみのことであり、愛する人を失ったり不治の病にかかるというようなことは、この世における「通常の苦しみ」であって、キリストとともに受ける種類の苦しみではない、という部分(ボイドの引用)に引っかかった。最終的にはキリストとともに勝利し、彼と統べ治めるようになるという約束は、あくまでもキリストとともに受ける種類の苦しみをキリストと共に苦しむ人に与えられるものであるなら、「通常の苦しみ」は、いくら苦しんでも、絶え抜いても、キリストと共に勝利者となるという約束ははない…ということになるのだろうか。

 たとえば震災で家族全員を失って一人だけ助かった人の苦しみとか、虐待を受けたあげく親から捨てられた苦しみとか、人身売買に売られて性奴隷にされた苦しみとか、そういう苦しみは、イエス様にとって、この世の「通常の苦しみ」であって、いくら苦しんでも、絶え抜いても、究極的には意味のないことなのだろうか… あるいは、キリストに従うがゆえにではないけれども、この世でmarginalizeされている人たち、抑圧されている人たちの苦しみはどうだろうか?(歴史の中には、キリストの名を語る人たちによって、搾取されたり抑圧されたりしてきた人たちもいる。)ボイドは、それもまた「通常の苦しみ」であり、彼らには神様は何の約束もしていないと言うのだろうか。

 私は3年前、高橋秀典先生に、キリストの苦しみに与るとはどういうことですか、と尋ねたことがあった。身から出たサビのような、自業自得の苦しみや、自分のせいではないのに被ることになった苦しみを苦しんでも、それはキリストの苦しみに与ることにはならないのですか?と。高橋先生は、詩篇38篇は身から出たサビのような苦しみに関するものだし、詩篇69篇は自分のせいではないことで苦しむことの代表です、とおっしゃった。また、キリストの苦しみの核心とは、人から罵倒され中傷され誤解されることにあるとおっしゃった。でも、「苦しむことに何の区別もないと思います。その中でイエスとの交わりを持っているものは、みなキリストの苦しみに与っているのだと思います」ともおっしゃられた。私は高橋先生のこの最後の言葉に、とても慰められた。 

 キリストに従うがゆえに味わう苦しみは、キリストの苦しみに与ることであるというのはとっても納得するし、それに異存はない。イエスも、「義のために迫害されているものは幸いです。…わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです」と言われた。でもそれ以外の苦しみは「通常の苦しみ」であり、ゆえに大した苦しみではないかのように言うなら、どうなのかと思ってしまう。「通常の苦しみ」という言い方は、誰だって経験することなのだから、just suck it up!と言われているように感じてしまう。

「キリストの苦しみに与る」ことと、「キリストが私たちの苦しみをともに苦しんでくださる」ということは、確かに違うのかもしれない。そして、前者には前者ならではの約束や祝福があるのだろう。でも、この両者に本質的な違いがあるのかどうか、私にはわからない。
 そもそも、この世におけるほとんどの苦しみは、(愛する人を失うことも、不治の病にかかることも)この世に存在する悪の力に端を発するものであるように思う。だとしたら、必ずしも「キリストに従うゆえ」の苦しみでなくても、苦しみを受けてもそれにgive in することもgive up することもなく絶え抜くということ自体、悪に立ち向かうことであり、何らかの形でキリストのご性質を反映するような気がする。たとえば、貧しい人たち、抑圧されている人たちの中にキリストの御顔を見る、というのもそういうことだからではないだろうか。

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フィリッツ・アイヘンバーグ『炊き出しの列に並ぶイエス』
 
 また、たとえば病により激しい痛みにある人が、十字架のイエスの肉体的苦しみを思って自分の痛みに耐える、という話はよく聞く。しかし、こういう苦しみは、信仰ゆえに生じた苦しみではないので、キリストの苦しみに与ることにはならないのだろうか。
 イザヤ書53章には、イエスは私たちの病を負い、私たちの痛みをになってくださり、イエスの打ち傷によって私たちはいやされたとある。イエスの苦しみというものが、そもそも私たちの苦しみを負ってくださったものであるなら、この世の「通常の苦しみ」を苦しむことはイエスの苦しみに与ることにならないというのは、やっぱり違うような気がする。

 どうなのだろう?