About every five hundred years the Church feels compelled to hold a giant rummage sale. (Mark Dyer, Anglican bishop)


 サラ・ベッシーの「Out of Sorts」という本を読んでいたら、フィリス・ティックルが上記の言葉を引用しつつ、教会(大文字のthe Church)は、約500年ごとに大々的な「がらくた市」の時期を通ると言ったという話が出てきた。フィリス・ティックルとは、The Divine Hoursという定時の祈りに関する本で有名な、Publishers Weeklyの宗教部門の設立者であり、キリスト教霊性に関する著述家。(今年81歳で亡くなられた。)

 がらくた市では、新しいものを導入するために、これまで日常的に用いられていたものが不要品として売りに出される。その中で、まだ使える、新たな価値が見いだされると思われるものはキープされるが、そうでないものは処分される。

 「教会のがらくた市」では、それまで主流だった確立されたキリスト教のあり方が、もはや教会の成長を許さない鎧のようになってしまったとき、刷新と新しい成長のためにそれを打ち砕き、そのプロセスの中で、まだ有用なもの、新たな価値を見いだせるものが選り分けられることになる。

 ローマ教皇グレゴリウス1世による教会改革(6世紀)、11世紀初頭に起こった教会の分裂(The East–West Schism 西方のカトリック教会と東方正教会に分かれた)、16世紀初頭(1517年)の宗教改革… フィリス・ティックルは、今、21世紀の教会もまた次なる「がらくた市」の時期にさしかかっていると言ったそうだ。(参照:The Great Emergence by Phylis Tickle, 2008) 

 なんだかびっくり。言われてみれば、確かに500年おきくらいに、教会史の中でそれまでの流れをひっくり返すような大きなことが起きている… ティックルは、21世紀の「がらくた市」には、いわゆるエマージェントチャーチ運動を念頭に置いていたようだけれど、それは今の時代の教会で起こっていることの一部に過ぎず、それだけではおさまらない、何かもっと大きな変化が起こりつつあるような気がする。

 ティックルは、凝り固まった教会のあり方が壊されるとき、地理的にも人口統計学的属性面においても、信仰が劇的に広がっていったと説明した。これまでのあり方が壊されるのは、その真っ最中には不安だし、苦痛だけれども、その結果として、それまでには届かなかったようなところにまで、キリスト教が届いていった…

 サラは言う。

今、私たちは皆、自分の家を片付けているのです。ちょうど東西の教会の分裂や、宗教改革のときのように、公同の教会としての私たちの宗教を選別し整理するときにきているのです。どのようにここに到達したのかを調べるのは興味深いことでしょう。テクノロジー、哲学、科学、医学、芸術、セクシュアリティー、政治、倫理、信仰、メディア、開発、世の中のグローバル化。教会は、それらの変化・発達に応答し、自らを刷新しつつあります。私たちは死につつあるのかもしれません。でも、死ですらも私たちのストーリーには欠かせないものです。それは、復活の直前にやってくるのですから。

それは、世界的にすでに起こっています。世界の隅々や権利を奪われている人たちの間で、また部外者の間や草の根で。教会の権力の牙城やリーダーシップにある人たちは、起こりつつある変化のきしみを感じているに違いありません。


 Wow. なんだか、すごい時代に生かされているのかもしれない。

 形だけで、実際に私にいのちを与えていないものは、もう手放そう。でも、片付けの勢いに乗って、大事なものまで捨ててしまわないように…

 祈りつつ、祈りつつ。へりくだって、主を求めつつ、御霊の導きによる識別力が与えられますように。

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