今日のシカゴはとても風が強い。窓の外で激しく揺れる木々を見ながら仕事をしている。

 現在推敲中のSurprised by Hopeの最終章にあった、祈りに関する記述…

三つめの領域は祈りである。祈りには、「私たちはだれか、何か、自分を超えたものに対して開かれている」と思わせるものがある。人は、少なくとも原則において、自分を超えた力や、自分自身の人格を超えた、おそらくは自分よりも高いところにいる方とさえ言えるかもしれない、そんな存在を意識している。祈りとはそういうものだ。少なくとも、そこがスタート地点である。
 

しかし、今やイエスの死と復活と神の将来の現実が、私たちの現在の世界に飛び込んできた。新約聖書記者たちは、この最も低次元の共通項によって示唆されるような、大雑把で曖昧で未熟な祈りではもはや納得しない。ここでも、祈りについての三つの異なる見解の概略を述べる。それから、正統なキリスト教の考えに沿った祈りが、いかにそれぞれの長所を保ちつつも、現在に飛び込んできた将来の神に呼ばれ、それらを越えていくかを示そう。

 

一つめの見解は、周囲の世界の美や喜びや力に心を開いた、ある種の自然神秘主義的な方法で祈りを理解することである。それは、雪に覆われた山を見て息をのんだり、街の明かりから離れたところで夏の夜空を見上げてその満天の星空に畏怖の念とともに圧倒されるとき、だれの力も借りずに思いがけず起こることだ。また、深く恋に落ち、自らを与えることに自己の満たしを覚え、それまでは想像もできなかった形で自分の欠けが満たされたように感じるときに起こることだ。これらはどれも、よく言われるように、深く「宗教的な」体験だと言えよう。それを私たちの思いと心に抱くなら、ある種の祈りとして説明することができる。それは、自分自身を超えた何かを喜び、その一部になったように感じ、単調な日々の生活をはるかに超えたある種の一体感の中に捉えられたかのような感覚である。そのような自然神秘主義の感覚は非常に力強く人を動かしうる。実際、生活を変える力もある。そのような体験を絶賛して語り、教会がそれを認めることを期待する人たちもいる。しかしこれは、新約聖書がキリスト者の祈りとして理解するものではない。
 

その種の祈りの逆の極端な例に、手近なもので言えば、古代の異教によく見られる請願の祈りがある。遠くにいるよく知らない、間違いなく気まぐれで、場合によっては悪意さえ持っている神的な存在に請願するのだ。これから海に出る船乗りが、ポセイドンの神殿に行って安全な航海を願っていけにえを捧げる。それでも彼は、だれかほかの人がポセイドンに賄賂を渡したのではないかとこっそりと恐れている。そして逆方向に風を吹かせるのではないかと心配する。あるいは、魔法の呪文を間違えてしまったかもしれない。あるいは、細心の注意を払ったにもかかわらず、いけにえが傷ものだったかもしれない。多くの人たちが祈りにこのようにアプローチする。教会でさえそうだ。私たちに関心があるかどうか、願いを優しく聞いてくれるかどうかもわからない、顔のない役人への距離をおいた懇願である。
 

この二つの間に、両方の要素を持ちつつ、しかしそれをはるかに超えたものとして、古代イスラエルの祈りの生活がある。詩篇には確かに異教との類似点がところどころあるが、詩篇のような祈りのコレクションは他に類をみない。それは創造の素晴らしさを称賛し(「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである」)、天が神の栄光を宣べ伝えていることを認める。しかし詩篇は、被造物そのものとではなく、その愛と力が被造物を通して知らしめられる、造り主なる神との親密な合一を祝う。詩篇の作者たちは、神が遠く離れた存在になってしまったと感じることも少なからずある。おそらく、神が自分たちの敵になったかのように感じたことさえあっただろう。それでも、いくら神を呼んでも何も起こらないときでも、親分が魚釣りやゴルフに行って留守になってしまったとは断固として思わない。彼らは、神ご自身がなさった約束を、イスラエルのために昔なさってくださったすばらしい御業を、そして何よりもご自身の彼らへの愛のすべてを、神が思い出してくださるまで執拗に戸を叩き続ける。そして、どう見ても危機を脱して解決に向かう道はなさそうだというときでさえも(詩篇88、89篇)、たとえ悲しみながらだとしても、最終的にはその差し迫った状況を、神の戸の前に置いてくることを良しとする。「あなたは私から愛する者や友を遠ざけてしまわれました」。ヨブのように、たとえ神が彼らを殺害しても、それでも彼らは神を信頼する。そしてもちろん、詩篇の他にも、初期のころから現在に至るまで、ユダヤ人が1日に三回祈る素晴らしい「シェマの祈り」がある。「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。神は唯一でありそのお方は私たちの神である」。超越性、親密さ、賛美、契約。これらが、聖書的な祈りのルーツである。

(N.T. ライト Surprised by Hope 15章 より。強調は原文の通り) 


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(ぼうぼうに伸びていた庭のレンギョウの枝を少しはらった。そのまま捨てるにはしのびなかったので、花瓶に生けたら花が咲いた。左の鉢はバラの挿し木に挑戦しているところ。)