去年のバレンタインデーは日曜日で、みんが退院してきた二日後だった。この週末は、エミとま〜やも急遽帰宅してくれていた。そこで私たちは、教会に行くかわりに自宅で短いファミリーディボーションの時を持った。思えば、子供たちが小さいときは、週一くらいでやっていた。ケンは赤ちゃんのころから参加していたね。^^

 1年前のものが、家族六人で持つ最後のファミリーディボーションになった。(去年のバレンタインデーのブログ。)

 その中で、私はこう書いていた。
みんは、ヨハネ11章の前半でいちばん心に留まったのは、イエス様のcompassionだと言った。死んでしまったラザロを蘇らせたイエス様の力とか権威よりも、悲嘆の中にいる人たちを見て涙を流されたイエス様の憐れみが、いちばんみんの心に留まった…。それを聞いたとき、ああ、イエス様は確かにみんのそばにいてくださっている、みんをその御腕の中に抱いていてくださっている、と分かった。

 そのことを思い出していたら、これからは私の中で、バレンタインデーはcompassion記念日になりそうだなと思った。Compassionほど、神様の私たちへの愛を端的に現すものはないかもしれない…

 ちなみに、Compassionとは(特に苦しんでいる人に対する)憐れみ、同情、思いやりのこと。ただし上から目線の「可哀想に」ではなく、共に苦しむような強い共感を示す。ギリシャ語では(有名な?)「スプランクニゾマイ」で、ちょっと検索していたら、このような記述を発見。

イエスの語った「善いサマリア人のたとえ」の本文には「その人を見て憐れに思い」というサマリア人の「共感」を表わした言葉がある。
 

 この「憐れに思う」の原語は「スプランクニゾマイ」というギリシア語であり、「スプランクノン(はらわた、腸)」から来ており「はらわたを突き動かされる」「内臓を引き絞られる」という意味である。
 

 この語はイエスの「真正のことば」と考えられる他の2つの「たとえ話」と、イエスの活動を報告する文書の中にも用いられている。
 

 それらの記事の中で、イエスは当時の社会に根強くあった、病気や血液、死を「けがれ」と見なす因習をものともせず、患者たちに直接触れることで、その痛みを癒された。
 

 この他者の痛みに共振して自らの内臓をもうち震わせるイエスの共感こそ、彼のあらゆる宗教的・社会的活動の源泉であり、キリスト教信仰において忘れてはならない基本姿勢である。
 

 ここには、聖書においてイエスの示した「憐み」の感情を表現する語であり、またイエスが「たとえ話」において「憐み」を表現するために用いた「スプランクニゾマイ」という語に注目して、キリスト教における「憐み」が、援助者が困窮者に対して上から下に、或いは遠く離れて、客観的に眺める行為ではなく、援助者と困窮者という両者を隔てる時代的、文化的な偏見、或いは現実的な立場の違いを飛び越えて、まさにその苦しみを「共に感ずる」こと、すなわち「共感」であることが語られている。(出展


 なんて素晴らしい説明!

 Compassionと言えば、特に思い出すことがある。3〜4年前、みんの高校時代の友人シンディー(仮名)が悪性リンパ腫になって、化学療法を受けていた。副作用で吐き気がひどく、食欲もない友達を何とか助けてあげたかったみんは、その友達のためにマリファナを入手しようとした。マリファナは、化学療法の副作用を緩和するのに効果的なのだそうだ。しかしイリノイ州ではまだ医療目的のマリファナは認可されていないので、入手したければ、ヤミで購入するか、使用する本人が州に申し込んで許可を得る必要がある。(その手続きのプロセスは長くて面倒なものらしい。)そこで顔の広いみんは、マリファナを入手できる高校時代の友達に頼んで買ってきてもらったらしい。しかし、それを家に持ち帰ったとき、やはりみんも緊張したのか、様子がおかしかったので問い詰めたところ、マリファナが見つかった。私はただちに没収して捨てた。みんは抗議したけれど、私は「違法は違法なんだからダメ!」と譲らなかった。今にして思うと、可哀想なことをしたと思う。

 そのあと、私とみんは、明け方4時ごろまでずっと話をした。みんは医療目的のマリファナ使用と各州の法律について自分が調べたことを、私に教えてくれた。ほかにも、そのお友達の状況や、みん自身の考えや気持ちなど、いろんなことをシェアしてくれた。私はみんの話を聞きつつ、親としての私の正直な気持ちを伝えた。みんは、我が子が非合法なことと関わりを持つことが耐えられないという私の気持ちはわかってくれたけれど、その数時間にわたる対話の中で、みんがマリファナを購入できるような友達と付き合いがあることが嫌だった私はつい、「どうしてそんな子たちと付き合うの? あなたはそういう子たちとは違うでしょ!?(You are different from them!)」と言ってしまった。するとみんは、「お母さんはどうして "we" and "theyと分けるの? 私たちと彼らのどこが違うって言うの? 私はたまたま良い家族に恵まれたから、こうして何不自由なく暮らせるけど、彼らは私が持っているみたいな家族やサポートを持っていないから、それでいろんな苦労をとおっているんだよ。私たちのほうが彼らより偉いとか良い人間だというわけではないんだよ!」と喝破されてしまった。

 このときみんが示したcompassionも、まさに「援助者と困窮者という両者を隔てる時代的、文化的な偏見、或いは現実的な立場の違いを飛び越えて、その苦しみを『共に感ずる』」ことだったのだろう。みんは、ガンの友人の副作用による苦しみを少しでも和らげてあげたくて、必死だったのだ。しかも当時のみんは、まだ化学療法の副作用がどれほど苦しいものかを知らなかったのに、それでも危険を侵してでも助けようとした彼女の思いに胸が打たれる。Compassionとは、きれいごとでは済まないものなのだ。思えば、イエスが示されたCompassionも確かにそうだった。だからイエスは宗教的指導者たちに嫌われたのだ。

 この悪性リンパ種になった友達は、高校在学中に未婚の母となり、高校を中退していた。それでもみんは、この子と友達でい続けることはやめず、このとき生まれた赤ちゃんの1歳の誕生日には、風船とクッキーをもって、誕生日のお祝いにも出かけていた。この友達は、病気は完治して今は元気にしているのだけれど、その後、お母さんがガンになった。みんがガンと診断される少し前にこのお母さんもガンと診断された。彼女はみんが亡くなる数ヶ月前に亡くなった。みんは何度もお見舞いに行っていた。自分がお見舞いにいただいた美味しいお菓子を、箱ごと全部もってこのお母さんのお見舞いに行ったこともあった。このお友達と私は、今はFacebookでつながっている。彼女が投稿するものから、いかにしっかりした考えを持った女性であるかがわかり、さすがみんの友人だと誇らしく思いつつ、影ながら応援している。

 イエス様、あなたがみんに教えたようなコンパッションを私にも教えてください。私もあなたのように、みんのように、コンパッションのある者となりたいです。私にとってはまだまだ道は長そうですが、それでもどうか、私を教え導いてください。


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(2016年2月14日)



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(今年、夫が私に贈ってくれた、大好きな黄色いチューリップ)