「沈黙」に関して、私自身の感想をブログに書くのはやめておこうと思っていたのだけれど、先日読んだフィリップ・ヤンシーの「沈黙」に関する記事がとてもよくて、特に次のパラグラフにグッときたので、ちょっとメモ。

『沈黙』の中心には、だれもが隠し持っている秘密がある。ポルノ、ちょっとした浮気、嘘、根に持った恨み、家庭内の摩擦、依存症…  それらのものを、驚くべき裏切りの物語の中で浮き彫りにする。究極の裏切りにあったのち、こんな人のことはまったく知らないと言って呪った裏切り者の使徒と、クリスチャンの迫害のプロから転じて「異邦人への使徒」となった者の上に、ご自身の教会をお立てになった方、ご自分を殺す者たちのために「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです」と祈られた、あのしもべなる方を思い出させる。結局のところ、『沈黙』は、恵みを受けるにふさわしくない者、つまり私たちすべてに対する、神の恵みの物語なのである。 

-Grace in Silence

 これを読んで、ふと思わされた。『沈黙』という小説の中でロドリゴが踏んだ踏み絵は、もしかしたら彼の自我を象徴するものだったのではないだろうか、と。立派に殉教した素晴らしい宣教師だったと思われたい、しかし拷問されて殺されるのは怖い…、という身勝手で情けない自我。彼にとって、踏み絵を踏むということは、そのような自分の身勝手さと情けなさを、公に認めることにほかならなかったのではないだろうか。踏み絵を踏むことで彼が棄てたのは、彼の主なるキリストではなく、自我に根ざした彼の夢と、そのような弱々しい自らのプライドだったのかもしれない… (もちろん、踏み絵を踏むことを拒絶して殺された人たちは、最後まで自我を捨てなかったという意味ではなく、あくまでもロドリゴの場合は、ということだけれど。)

 そう思うと、そんなにも身勝手で情けない私たちのこともゆるし、受け入れ、愛し、しかも清め、癒し、立て直して、ご自身の御栄光をこの地に反映させるために用いてさえくださる、神様の驚くべき恵みと憐れみの深さに驚嘆せずにおれない… (イエス様のことを一度も裏切ったことのないクリスチャンって、いるかな…?)

 そして、つくづく思うのは、今私が、ここでこうして呼吸していられるのも、ただひとえに、この主なるキリストの恵みと憐れみのゆえなのだと…

 
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ホイートン大学でクリスチャン日本画家マコト・フジムラ氏の「沈黙」にちなんだ展示会が行われたときのチラシ。

そして、フジムラ氏が「沈黙」にインスパイアされて書いた本、「沈黙と美」に関連するウェブサイトです。