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 N.T. ライトの "Surprised by Hope" の
第11章 「煉獄、パラダイス、地獄」の最後の段落より。


 しかしこの議論の最後で、また本書のこの箇所で、最も重要なこととして私が述べたいのは、「天国行きか地獄行きか」がキリスト教の中核ではないということだ。これはキリスト者の希望にある中心的な「驚き」の一つである。何世紀にもわたる神学的伝統では、「死んだら私はどうなるのか」という問題を、重要で中心的で枠組みを与える問いとして捉えてきたが、ここまでの議論で私が言いたかったことは、そうではないということだ。新約聖書は、そのルーツである旧約聖書と同様に、全世界、全宇宙の救済と再創造という神の目的こそ、重要で中心的で枠組みを与えるものであるとたびたび主張している。個々の人間の運命はその文脈の中で理解されなければならない。ただしそれは、私たちは単にもっとずっと大きな全体像のほんの一部にしか過ぎないという意味ではない。現在私たちが「救われている」ことのそもそもの意義は、私たちがそのより大きな全体像と目的の中で不可欠な役割を担うことにあるのだ。(パウロはこの役割について、「神の同労者」という驚くべき言い方をしている。)それを理解するなら、自分の「運命」の問題を喜びか災いかという観点から考えることは、おそらく問題全体を間違った見方で見ているのだと気づくだろう。問うべき問題は、「神の新創造はどのようにしてやってくるのか」であり、それから「私たち人間は、被造物のその刷新と創造主なる神が新しい世界に始められる新たなプロジェクトに、どのように貢献できるか?」なのである。そうすれば、人間の前にある選択は、これまでとは異なる視点から言い換えられる。つまり、「あなたは造り主なる神を礼拝し、私たちを新しく造り変えることのできる、力強く癒しに満ちた神の愛を世界に反映させる人間になること、そして神の栄光によって完全にそういう人間になることが、何を意味するのかを見出すのか? それとも、現状の世界を礼拝し、この世にあるエネルギーから権力や快楽を得ることによって、堕落しやすい自分の人間性をより強化し、自分自身の非人間化とこの世の中の堕落をさらに推し進めることに貢献するだけなのか?」

 

 このことについて考えるなら、さらなる粛然たる考えに行きつく。私が示唆したようなことが少しでも当たっているなら、「天国と地獄」を究極の問題として主張することは、つまり個々の人間の最終的な行き先がこの世で最も重要なことであると主張することは、一世紀のユダヤ人が犯した過ち、イエスとパウロも注意を呼びかけていた過ちと同様の過ちを犯すことにならないだろうか? イスラエルは、造り主なる神の目的はすべてこの問いに行き着くと信じていた。つまり、「神はどのようにしてイスラエルを救済なさるのか?」という問いである。しかしイエスの福音は、神の目的は「神はどのようにしてイスラエルを通してこの世を救済するのか」という問いにまで及ぶものであることを明らかにした。したがってイスラエルを救済すること自体はそのプロセスの重要な一部ではあるが、中心点ではなかった。私たちが今日直面しているのも同様のことかもしれない。どの人間を神が天に連れていくのか、どのようにして神はそれをなさるのかという問題ではなく、人間を通して神はどのようにご自身の被造物を贖い、刷新なさるのかという問題である。個々の人間の救済はそのプロセスの重要な一部であるが、それが中心点ではないのだ。問題をこのように設定し直してからその光のもとでローマ書と黙示録をもう一度読むなら(もちろん新約聖書の残りの書も)、そこに多くの考えるべきことを見出すだろう。