遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督の「沈黙(サイレンス)」が周囲で随分話題になっています。

 私も1月に入ってすぐに、ま〜やと二人で観に行ってきました。数年前に映画化の話を聞いたときからずっと楽しみにしていましたし、原作に忠実な、期待を裏切らない出来栄えだったと思いました。

 話題作があれば、いろいろな感想が出てくるのは当然です。ましてやクリスチャンにとって、この作品は単なる映画では済ませられないものがあるかもしれません。それでも、「クリスチャンとして」この映画は是なのか非なのか、この映画に描かれている神、キリストは正しいのか間違っているのか、といった二者択一的な議論に終始したり(もちろん、そういう考察も有益でしょう)、神学的・信仰的に正しい意見を持たねばといった思いに捉われてしまうと、もしかすると、この作品を観ることを通して神様が差し出しておられる招きや問いかけを聞き逃してしまうかもしれません。

 (ちなみに、遠藤周作は、この作品に関する講演の中で、これは小説であって神学ではなく、神学的な批判を受けるなら無残に砕けてしまう、しかし小説家の立場から言わせてもらうなら、小説家もまた皆と同じように、人生がわからないから、人生というものに結論が出ていないから、手探りでそれを小説に書くのだ、と言っていました。こちら。1966年の講演の音声です。)

 そこで、スピリチュアル・ディレクターでもある私としては、別の見方、別のプロセスの仕方をちょっと提案させていただきたいと思いました。もちろん映画や小説にはいろいろな鑑賞方法がありますし、そこから感じるもの、得るものも人それぞれなので、これはあくまでも一つの提案です。


 この映画の内容そのものや、遠藤の信仰や神学、神観を「評価」しようとするのでなく、この映画を観たときに湧いてきた、自分の反応や感情にフォーカスしてはどうでしょうか。恐れかもしれません。怒りかもしれません。嘆きかもしれません。共感、励まし、慰めかもしれません。あるいは、すぐには答えのでない課題を突きつけられたかのような居心地の悪さ、あるいは当惑、あるいは混乱かもしれません。

 この映画のどの部分が、自分にそのような反応をさせているのでしょうか。踏み絵の前に立たされるということでしょうか。信仰ゆえに拷問にあうことでしょうか。神の沈黙(と思われるもの)でしょうか。危険にさらされたらすぐに妥協してしまう人の弱さ、フェレイラやロドリゴが直面した葛藤や彼らの苦渋の選択、あるいは異文化間の摩擦、キリスト教を弾圧した日本の過去でしょうか。この映画(小説)に描かれているイエス像・神像でしょうか。

 なぜ自分はその部分に反応しているのでしょうか。自分が反応している映画の中の出来事は、自分にとって何を意味しているのでしょうか。何を象徴しているのでしょうか。何を思い起こさせるのでしょうか。また、自分の反応から見えてくる、自分自身が持っているイエス像や神像、信仰はどのようなものでしょうか。

 なぜ自分が感じているような感情や反応が出てきたのでしょうか。もし自分の中に強い感情が出てきたなら、何がそのような感情を起こさせたのでしょうか。もしも怒りが出てきたのなら、その怒りの背後にはどんな感情が隠されているのでしょうか…。(怒りとは「二次感情」で、怒りが湧いてくるときは、それに先立つ別の感情ーー恐れ、悲しみ、不安、恥、などなどーーがあると言われます。)
 
 登場人物の中に、自分と重なって見えた存在はいたでしょうか。どう重なったのでしょうか。その登場人物は、自分自身のあり方や内面などについて、何を気づかせてくれるでしょうか。
 
 これらに思いを巡らす中で浮かんできたみことばや、福音書の場面はあるでしょうか。そこから聖霊は私たちに何を語っておられるでしょうか。

 こうやって思い巡らしつつ、この映画を観たあとの自分の中に、聖霊さまに語りかけていただくためのスペースを作る… 神さまは今、私をどういう祈りに招き、どういうチャレンジ(あるいは励ましなど)を与え、どこに導いてくださろうとしておられるのでしょうか… 
 
 このブログ記事のタイトルを「霊的修練として観る『沈黙』」としました。それは、難しい、あるいは不快な映画を我慢して観ることによって忍耐を養う、というような意味ではなく、この映画を観ることを、自分の中に聖霊が働いてくださるためのスペースを作る一つの方法とする、この映画を観たときに出てきた自分の反応を通して、自分の心を聖霊によって照らしていただき、それを神様の導きをいただくきっかけとする、という意味です。(もちろん、『沈黙』に限らず、どんな映画でも、また生活の中のどんな体験も、そのような機会とすることは可能です。)映画そのものを批評しようとするのでなく、映画を踏み台として、自分の中にあるものに目を向ける。そしてそれを神さまの前に差し出し、その気づきを通して、神さまが今、自分に何を語ろうとしてくださっているのかに耳を傾ける。そのような思い巡らしを、神さまとの対話の機会、神様により近づく機会、神への祈りを深める機会として用いる…  


 いかがでしょうか。 

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