死よ、思い上がるな。なるほど、或る人たちは、

お前は強くて恐ろしいと言っている。だが、そうではないのだ。

何故なら、お前が打ち倒したつもりの人々は、誰一人も、哀れな死よ、

死なないのだ。お前は、この私も殺せない。

休息と睡眠はお前の似姿に過ぎないが、多くの楽しみがそれから生まれる。

お前からはもっと多くが出るはずだ。

我々のなかでも最も優れた者たちが、最も早くお前と去る。

それは彼等の骨を休め、魂を自由にするためなのである。

お前は、運命や、偶然や、王侯や、絶望した者の奴隷だ。

また、毒薬や、戦争や、病気と住み家を同じくしている。

その上、芥子や呪文でも、お前に劣らず、お前の一撃より上手に眠らせてくれるから、威張ることはない。

短い一眠りが経つと、我々は永遠に目覚めることになる。

その時には、死は消滅する。死よ、お前が死ぬのである。

(岩波文庫 対訳ジョン・ダン詩集より)


…(中略)… 死は何でもないのだろうか? 結局死は、力強く恐ろしいものではないのか? いや、そうではない。最後の二行がすべてを物語っている。死とは大きな敵であるが、すでに打ち負かされており、やがて完全に打ち負かされるときが来る。「短い一眠りが経つと、我々は永遠に目覚めることになる。/その時には、死は消滅する。死よ、お前が死ぬのである」。…(中略)… ジョン・ダンにとって、死は一大事だ。それは敵である。しかしキリスト者にとって、死はすでに打ち負かされた敵なのである

(N.T. ライト"Surprised by Hope"より emphasis added)


 私にとって、みんの死は「負け」ではなかった。なぜなら、死とは、「すでに打ち負かされた敵」だから。最終的な勝利を得ることはできないと知っている敵は、身体の死に向かう道のりの途中で、何度も私たちを攻撃し、みんや私に神を呪わせようとした。しかし私たちは、主の憐れみと、主が送ってくださった数多くの助け手たちのおかげで、屈しなかった。

 それでも、一度だけ、心膜嚢からの滲出液を抜くための太いチューブを胸部に挿入する手術をしたのち、激しい痛みの中でみんが「Why does God hate me so much?」と叫んだことがあった。そのとき私はとても辛かったのだが、あとからそのことについて祈り思いを巡らしていたとき、みんの叫びが十字架の上での「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というイエスご自身の叫びと重なった。そのときのことについて、私は当時、こう書き留めている。「イエス様ご自身が誰よりも、みんの気持ちと痛みをご存知であられるのだ。そして、誰よりもイエス様ご自身が、みんに寄り添い、みんと共にその痛み苦しみを担ってくださっているのだ。」

 神に見捨てられたかのように感じるほどの激しい苦しみ。しかしそれを体験するときほど、私たちはキリストに近く引き寄せられ、キリストと一体にさせていただくときはないのだろう。キリストの苦しみに与るとは、そういうことなのではないか。理由は何であれ、また肉体的にであれ精神的にであれ、神を信じるキリスト者が試練の中で神に見捨てられたかのように感じるほどの苦しみを味わうこと、それが「キリストの苦しみに与る」ということなのではないだろうか。

 そのような苦しみを感じるとき、だから神などいない、だから神などわからないと言って、神から身を引き背を向けるのか、それともわからなくてもなお神にしがみつくのか。この戦いに勝敗の分かれ目があるとしたら、そこだと思う。

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