先日の記事(「問い」)について、友人の古川牧師から、次のようなコメントをいただきました。とても心に沁みたので、許可をいただいて、ここに書き留めさせていただきます。

 僕は、息子が亡くなった時、「こんなことは神の御心ではない。神も悲しんでくださっている、ということにこそ、自分の慰めがある!」と言っていました。

 それが四年ぐらいしてから、「あれも、主の御心だと受け入れよう」と問われたように思い出しました。
 順番としては、佐知さんの逆ですが、両面、なんでしょう。

 今は、こういう危険性(禍にしろ、人為的な反逆にしろ)を含んだ世界を神が作られたこと自体に、測り知れない「神の覚悟」があるのだと、絶句するような思いです。

 三位一体にしろ、聖定にしろ、全知全能にしろ、神学者さえ「限界ある人間の表現」と弁えているのですから、うかつに口に出来ないことなのですよね。

 むしろ、言葉を失う思いを経験を重ねることが、神の奥義に近寄せられる上で欠かせないのだと思います。
でもそれを言葉につむいでいく佐知さんに、本当に敬意を表します!

 それに対する私のレスポンスは次のようなもの。

 私は、実を言うと、主の御心だと思えてならない思いも抱えているのです。ただ、まだそれを自分でも飲み込めていないし、ましてやそれをすべての苦しみや悪について一般化はできないな、と… 原則を見出そうとしたり、神について何か体系化しようとすることは私にはとうていできないし、ただ、一人の信仰者として神様の前に出つつ、静かに、ときには死に物狂いで、格闘していくしかないというか、そのプロセス、その旅路が私にとっての現実なのですね… だから、そのときどきの思いを書き留めています。

 「こういう危険性(禍にしろ、人為的な反逆にしろ)を含んだ世界を神が作られたこと自体に、測り知れない「神の覚悟」があるのだと、絶句するような思いです。」これ、まったく同感です。いつもありがとうございます!!

 御心なのか御心ではないのか、とは、普通で考えたら両立し得ない命題ですが、それでも両面なのだろうと思えるとき… 私たちの目にはあきらかに矛盾しているのに、それでもそういう中にある種の平安をもって入っていけるようになるとき… そんなとき、神様が私たちに天の領域を垣間見させてくださるような気もしています… こういう分かち合いができること、とても感謝です! 

 
この「問い」については、他にも何人かの方々からとても深いレスポンスを個人的にいただいています。お分かちいただいたこと、またそれぞれにand/orともに考えていけること、心から感謝です。そしてこの地に生きる者としての痛みと、その中でも主とともに歩めることの喜びを、みなさんとともに体験していけることも感謝です。

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(本文とは関係ない画像 カリフォルニア州マリエータの温泉)