私はこれまでの信仰の歩みの中で、この世に起こることは、どんな悲惨なことであっても、すべて神様の御手の中で、神様の許しの中で起こると教えられてきたと思う。神様がすべてのことを支配しておられるので、神の許しなしに起こることは何もない、と。そしてその中に、慰めや励ましを見出していた。

 しかし1年あまり前、ある人と苦しみについて話していたとき、「苦しみに意味はない」「神様が悪を計画することがないのはもちろん、悪が起こることを"許可"されることもない」と言い切られて、ショックを受けた。その人がどういうことを意図してそう言ったのか、はっきりとはわからないけれど、その人の考えでは、神はどんな悪とも一切関わりがなく、どんな理由でも、どんな意味があっても、たとえ「許可」という形でさえも、神が悪の発現に関与することはない、ということだったのだろうと思う。

 みんのことがあったので、私はみんが意味のない苦しみにあっているのなら可哀想すぎると思って、そんなことを言うその人を恨みもしたけれど、その一方で、善を生み出す目的で、神様がわざわざ悪をご計画される、あるいは悪が起こることを許されるというのも、確かに腑に落ちないような気はしていた。実際のところ、みんの闘病や死を通して、どんな素晴らしいことや美しいことが生み出されたとしても、私にとってはそれはみんの死や苦しみを正当化するものにはならないと思った。もちろん、結果として素晴らしいことや美しいことが生み出されたのであれば、それは感謝だと心から思うし、みんが犬死にするよりは、彼女の死が何らかの形で用いられるほうがはるかに嬉しいことではあるので、みんの闘病や死を通して神様に触れられたという証を伺うことは、大きな喜びではあったけれど。そういう証を伺って、私が傷つくというようなことはまったくなかったけれど。

 神学者グレッグ・ボイドは、この地上で起こるすべてのことは、何らかの形で、神様の緻密なご計画と私たちには隠された目的に沿って起こっているという考え方を、「青写真的世界観(Blueprint Worldview) 」と呼び、それに反論している(こちら)。他方、「青写真的世界観」に対してボイドが提唱する世界観は「戦争的世界観(Warfare Worldview)」という(こちら)。ものすごく簡単に言えば、この世では神(と神がもたらす善)と悪魔(と悪魔がもたらす悪)が絶えず闘っているという世界観といえるだろうか。最終的には必ず神が勝つことだけは決まっているが、しかしそこに至るまでの数々のバトルにおいては、悪が勝つか善が勝つかはわからない、それは神の側につく者たちがいかに神とともに戦うかによる…という感じ…? 

 悪が起こるとき、青写真的世界観では「主のご計画の中で目的を持って許されて起こった」と言い、戦争的世界観は「敵がやった、神様に責任はない」と言う。

 ボイドが青写真的世界観に反発するのはわかる。最初からさまざまな善を生み出すことが予定された上で、みんが選ばれてガンになって血を吐きながら21歳で死んだと考えることは、私には難しかった。そうであるなら、みんの癒しを求めて祈ることは、神様のご計画に反するものを求めていたことになってしまう。みんに死なないでほしい、癒されてほしいと願う私たちの側に、神様は立っておられなかったことになってしまう。神様は私たちと一緒に、病と闘ってくださっていなかったことになってしまう。

 しかし、「戦争的世界観」が正しいならば、みんが死んだのは、そのバトルにおいては、神様と神様につく者たち(つまりみんと私たち)が負けた、ということになる。実際、「戦争的世界観」を支持するある信頼できる友人にそのことを尋ねたら、その人は「そうだと思います」と言った。いくら、みんの死は神様が意図したことでも許したことでもなく、神様も一緒に泣いてくださっていると言われても、それだけでは私には、そこに慰めや救いを見出すことはできなかった。

 神様が、ある目的を持ってみんがガンで苦しんで、人生半ばで死んでしまうことを許したと考えることも受け入れがたいけれど、みんのいのちをめぐって善と悪の戦いがあった結果、善が負けて、みんが死んだと考えることもまた、私には同じくらい受け入れがたいことだ。これはほかの苦難についても同じ。アウシュビッツの惨状は、神の御手の中で神の許しのもとで起こったことなのか、それとも善と悪が戦った結果、神様側が負けて起こったことなのか。どちらも腑に落ちない。

 今のアメリカや日本のキリスト教界で主流のナラティブは青写真的世界観なのだろうか、行く先々で、「すべてのことには意味がある」「すべてのことには理由がある」「すべてのことは神の御手の中で許されて起こっていること」と聞く。そう聞くたびに、私は「そのとおり!」と両手をあげて賛同することができず、かといって戦争的世界観を受けいれることもできず、苦しい気持ちを抱えていた。

 私のスピリチュアル・ディレクターからは、この疑問に二者択一の白か黒かで決着をつけようとするのではなく、そのテンションを神様の前にホールドするように、同時に、分からないからといって蓋をするのでもなく、このことについて神様との対話はずっとオープンにしておくようにとアドバイスを受けていた。

 そういうわけで、神様との対話を続けつつ出かけた今年のECだった。皮肉にも(?)、今回のテーマ聖句はヨハネ16:33「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」で、JCFNオリジナルのテーマ賛美曲の歌詞の一節には、「すべてのことは神の許しの中で起こる」というような意味の箇所があった。その部分の歌詞がスクリーンに映し出されたとき、私には歌うことができなかった。しかし、だからと言って苦味のようなものがあったわけではなく、むしろECに来てまでもこのトピックが出てきたことで、優しく対話に招いておられる神様のまなざしが一層強く感じられ、平安を失うことはなかった。

 翌日の女性集会では、メッセンジャーの金田マリアム孝子さんが、「信仰のシフト」ということについて語られ、また「キリスト教のシンボルは何ですか? ハートですか? 鳩ですか? 十字架ですよね?」とおっしゃった。そのとき、それまで私の中で引っかかっていたものが、ポロリと外れて落ちるような感覚があった。孝子さんの優しい語り口はひりひり痛んでいた私の魂に、優しく軟膏を塗ってくれるかのようだった。

 その晩は安らいだ思いを抱いて休み、翌朝、祈りのチャペルに行って、みことばに思いめぐらしつつ祈っていた。そのとき、先日も書いたように、「栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行く」という箇所が「十字架から十字架へと主と同じかたちに姿を変えられて行く」となって、私の思いに迫ってきた。

 その日のジャーナルに、私は次のように書き記した。

「この地には戦いがある。悪がはびこっている。しかし私たちが十字架から十字架へと主と同じかたちに姿を変えられていくとき、私たちには『負け』に見えることの中にも主の臨在をもたらし、そこを十字架の立つ場所にすることができる。そうやって主のご栄光を輝かせることができる」

 苦しみには意味があるのか、理由があるのか、なぜ苦しみがあるのか… そのような問いは私たちにとって、切迫した極めて当然の問いであるように思えても、CSルイスが言うように、神様の前には「黄色とは丸ですか、四角ですか」というナンセンスな問いなのかもしれない。

 それでも、苦しみにもともと神様が意図した意味はないとしても、現実に起こっていること、起きてしまったことに私たちが神様と協働してどう応答するかによって、そこに意味をもたらすことはできるような気がしている。(そしてもちろん、すべての苦しみは同じでなく、ときには神様が目的や意味をもって導いておられることが、私たちには「苦しみ」として感じられることもあるとは思う。その意味で、「苦しみ」=「悪」とは限らないのだろう。)

 また、二者択一であるかのような問題設定は、往々にして私たちを窮地に追い込む。多くの場合、現実はそんなにシンプルではない。

 大切なのは問いに対する答えではなく、どんな問いを問うかであるとよく言われる。間違った問いを問うならば、どんなに必死にその問題について考えようとも、その答えは私たちをどこにも連れていってくれない。たとえその問いの答えを得ても、なお行き止まりのままでしかない。疑問を持つことがいけないわけではないし、むしろ私は、疑問や疑いを持つことを大いに推奨するけれど、自分が持つ疑問の答えが必ずしも私たちを真理に導くとは限らないことも覚えておきたい。神様が私たちに得させたいものは、多くの場合、私たちの問いの答えを超えたところにあるのではないだろうか。

 そして、十字架を見上げるとき、その足元にひざまずくとき、私は結局ここに帰ってくる。

 「イエス様、あなたは私にとって十分なお方です。Jesus, You are enough for me.


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