今日はクリスマスイブ礼拝。メッセージは、イエス様はごく普通の人としてごく普通の人たちのところにやってきた、というお話。イエス様は馬屋で生まれたとずっと教えられてきたけれど、実はそうではなかったのだろうという話は、近年私も聞いたことがあったけれど、今日のメッセージでもそのことに触れられていた。一般的なクリスマスストーリーでは、マリヤとヨセフが「宿屋」に泊まろうとしたものの、もう部屋がなかったから外の馬屋に通され、その汚い場所で二人きりで出産した、ということになっているけれど、実は二人はちゃんと家の中に通され、大勢の人が泊まって賑わっている中で出産したのだろう、と。

 「旅館」と訳されてきた単語は、実は「客間」という意味で、宿屋の主人が「部屋はいっぱいだ」と言ったのではなく、たぶんヨセフの親戚か知り合いが「客間はもういっぱいだ」と言ったのだろう、と。そもそもベツレヘムは小さな村で、宿屋などなかっただろうし、当時のユダヤの家では、2階に人々の寝泊まりする部屋があり、家の一階は生活の場所で、そこにはキッチン、中庭、家畜のスペースなどがあったそうだ。そして飼い葉桶は、家の床に備え付けになっていて、それは人々のリビングスペースの近くにあったそうだ。イエスが飼い葉桶に寝かされたからといって、家の外にある馬屋で生まれたという意味ではなかった… 住民登録にやってきた親戚たちが大勢集まってわいわい宿泊しているところでイエスは生まれたと考えるほうが自然なのだとか。
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 ルカ2:18で、御使いに導かれた羊飼いたちが飼い葉桶に寝かされている赤ん坊のイエスを探し当てて、自分たちが告げられたことを伝えたとき、「それを聞いた人たちはみな…」とある。もしマリヤとヨセフが二人だけで馬屋にいて、生まれたばかりのイエスの面倒を見ていたのだとしたら、この「それをきいた人たちはみな」というのは誰のことなのか… この箇所からも、マリヤとヨセフが孤独な出産をしたのではないらしいことがわかる。彼らが貧しい夫婦だったことは、彼らの捧げ物が鳩二羽だったことからもわかるが、イエスの誕生は、必ずしも孤独なものではなかったようだ…

 伝統的なクリスマスストーリーでは、宿屋の主人というと、臨月のマリヤを連れたヨセフをけんもほろろに追い返した冷血漢のように描写されることが多かったが、実際には、宿屋の主人ではなく、ヨセフの親戚か知り合いで、追い返したのではなく、「客間はもう空いていないけれど、とにかく中にお入りなさい」と若い二人を招き入れ、できる限りのことをして出産を手伝ってあげたのだろうとパスターは言っていた。
 私たちも、イエスをお迎えするのに完璧な状況は整っていなくても、それでも自分にできる範囲でいいから、イエスのために場所を作って、イエスを私たちの中にお迎えしましょう… というメッセージ。 

 教会が長年信じてきたこと、思い込んできたこと、そして人々に教えてきたことの中には、いろいろと間違っていたことも含まれていたと思うと、なんだかトホホだけれど、だからといって、クリスマスの基本的なメッセージが変わってしまうわけではない。チャック・スミスの言葉を思い出す。「はっきりわからないことがあるからといって、はっきりとわかっていることまで捨てはいけない。(Never give up what you do know for sure for what you don't know for sure.)」

 屋外の馬屋で生まれようが、屋内で生まれようが、イエスが暗闇に光をもたらすためにこの世にやって来てくださったことには変わりない。

 主よ、このクリスマスの時期、いろいろな痛みや悲しみ、孤独や困難を抱えている私たちのことも、私たちと同じように苦しみや悲しみを知ることになる人として、この世に生まれてくださった御子イエスの光によって、どうか照らしてください。その光で、私たちを温めてください。そして、暗闇の中に輝く光の明るさと暖かさを知るものとして、私たちも御子の光を反射させることのできる者であれますように。

「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(ヨハネ1:6)

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(今日の燭火礼拝でのキャンドル。暗闇に光るロウソクの火に慰められる。)

追記:参考までに… これは最近見かけた記事です。