(去年の12月17日。このころにはすでにかなり弱っていた。)
*****
*****
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル4:12)」
a discerner of the thoughts and intents of the heart (KJV)....
先日、バイブルスタディでマタイ20章のぶどう園のたとえを読んだ。朝から働いていた人も、昼から来た人も、夕方遅い時間になって雇われてほんのちょっとしか働かなかった人も、みんな同じ賃金をもらったという話し。みんなで、「やっぱりずるいと思っちゃうよねー。」と話していたとき、A姉が、「私はこの箇所を読むたびに、いつも自分を『朝から働いていた人』だと思っちゃうんですよね」と言った。それを聞いて、私もそうだと気づいた。自分は朝から働いていた人だと思うから、主人の気前のよさを見ると不公平だと思ってしまう。自分は朝から働いていたのだから、主人からもらうべくしてもらうものをもらっているが、私と同じだけ働いていない人が同じようにもらうのはどうなの?と思ってしまう。自分で意識してそう思っていたわけではない。でも、そんな思いが自分の潜在意識の中にあるから、自分を『朝から働いていた人』に重ねてしまうのだ。
自分のことを朝から働いていて当然の報酬をもらう人だと思っているなら、それは私と神様の関係にどんな影響を与えるだろうか。私と他者との関係はどうだろうか…
Oh the discerner of my thoughts and intents...
自分がストラグルしていたものの正体に気づかされたので、逆にそれを歓迎して手放すために、Welcoming prayer(歓迎の祈り) を祈ろう。本当は、大分前からこの祈りを祈る必要性に気づいていたけれど、逃げていた。でも、the discerner of my heartにconvictされたので、もう逃げない。逃げられない。
Welcoming prayerは、次の三つのステップを取る。
(1)自分が感じているものーー不安なり、怒りなり、緊張なり、悲しみなりーーを、抑圧したり抵抗したり否定したりせず、そのまま感じる。決してネガティブな感情に耽るという意味ではなく、感じていることを正当化するのでもなく、ただ、そのような感情、感覚があるということを受け入れ、そのまま感じる。感情というものは、往々にして身体的にも現れるもの。心臓がドキドキしたり、頭に血がのぼったり、体がぐったりしたり、こわばったり、ソワソワして貧乏ゆすりを始めたり、などなど。そのように、体で感じられるまで自分の中にある感情を、いわば味わってみる。
(2)自分が感じているものを歓迎する。文字どおり、「ようこそ、恐れ(怒り、不安、悲しみ、苛立ち等…)」と口に出してみる。そして、そのような感情を感じているそのとき、その場にも、神様のご臨在があることを認める。ただし、歓迎するのは自分が感じている感情・気持ちであって、そのような感情を引き起こしている原因・問題(たとえば病、災害、いじめ、困窮、びっしりのスケジュール等…)そのものではない。また、否定的な感情を歓迎するとは、その中に喜んで留まるという意味ではなく、いったん自分の現実をフルに受け止めるということ。受け止めることなしには、私たちは逃げたり目を背けたりwithdrawするばかりになり、その現実に応答することもできないから。
(3)神に向かって手放す。自分が感じた強い感情やそれに伴う感覚を否定したり無理に変えようとする必要はありません。自分を責めたり恥じたりする必要もありません。その感情を変えたい、なんとかしたいという願いを神に向かって手放します。そして、その感情の中にイエス様をお招きします。そしてこう祈ります。「これらの感情の背後にある、期待通りに物事をコントロールしたいという願い、他者から受け入れられ、認められ、愛されたいという願い、安全でありたい、安全であるとの保証がほしいなどの願いを手放します」。主だけが神であり、主こそ私を満たし、癒し、慰め、励まし、助け、支えてくださる善いお方であるという信頼のもとに祈ります。(Trusting abandonment to Christ)
(3)神に向かって手放す。自分が感じた強い感情やそれに伴う感覚を否定したり無理に変えようとする必要はありません。自分を責めたり恥じたりする必要もありません。その感情を変えたい、なんとかしたいという願いを神に向かって手放します。そして、その感情の中にイエス様をお招きします。そしてこう祈ります。「これらの感情の背後にある、期待通りに物事をコントロールしたいという願い、他者から受け入れられ、認められ、愛されたいという願い、安全でありたい、安全であるとの保証がほしいなどの願いを手放します」。主だけが神であり、主こそ私を満たし、癒し、慰め、励まし、助け、支えてくださる善いお方であるという信頼のもとに祈ります。(Trusting abandonment to Christ)
The Welcoming Prayerby Father Thomas KeatingWelcome, welcome, welcome.I welcome everything that comes to me todaybecause I know it's for my healing.I welcome all thoughts, feelings, emotions, persons,situations, and conditions.I let go of my desire for power and control.I let go of my desire for affection, esteem,approval and pleasure.I let go of my desire for survival and security.I let go of my desire to change any situation,condition, person or myself.I open to the love and presence of God andGod's action within. Amen.ようこそ、ようこそ、ようこそ。今日、私のところにやってくるすべてのものを歓迎します。なぜなら、それらは私の癒しのためであると知っているからです。すべての思い、感情、気持ち、人、状況、状態を歓迎します。力や支配を持ちたいという願いを手放します。愛情や、尊敬や、承認や、喜びを得たいという願いを手放します。サバイブしたい、安全でいたいという願いを手放します。状況や、状態や、人や、自分自身を変えたいという願いを手放します。神の愛とご臨在、そしてその中にある神の御わざに、自らを開きます。アーメン
正直なところ、こんなことできるかどうかわからないけれど、主に信頼してとにかく祈る。これらのことをさせてくださるのも、内なる主だから。
コメント
コメント一覧 (4)
お返事遅れてごめんなさい。
私もそう思います。手放す祈りは、イエス様への信頼の祈りと表裏一体ですよね。諦めの祈りなのではなく、イエス様に完全に信頼して委ねる祈り、またイエス様が示してくださることには従いますという、従順の祈りでもあるかもしれません。
そうですよ、主が導いてくだされば、わたしたちにもきっとできますよね!
自分の痛み、傷を認めて受け止めるって、決して簡単ではないですよね。だからこそ私たちは、つい、見て見ぬふりをしたくなる…
神様は、柔らかく美しいViviさんの心を大切に大切に扱ってくださり、その痛みに触れ、傷を癒してくださると信じます。しかもその傷は、ただ癒されるのを待っているだけではなく、何か美しいものに変えられていくのだと信じます。
家族の心の病は辛いですよね… みんも、ガンになる前から心の病で苦しんでいました。
ガンの闘病を見守るのも辛かったけれど、心の病との闘いも辛かった…
それでも、呪いを祝福に変えてくださる主の福音に、信頼します。
傷ついていたのに傷つかなかったと思いこもうとしてきました。
また、傷ついたのは自分が悪いからだと考えていました。
そうして傷つかないダイヤモンドのような心を持ちたいと思っていたのです。
でも、夫の心の病を通して自分に起こるすべての感情を抑え込んではいけないと気付くようになりました。
苦しい作業ではありますが、自分の感情をそのまま受け止めることから始めなければならないと思ったのです。
神さまはわたしにダイヤモンドのような硬い心ではなく、柔らかな心をくださるお方なのだと思います。
わたしの心は傷つき、血を流しますが、その傷を癒してくださるお方がいるのだから。
ダイヤモンドの心は傷つきませんが、傷ついた人の痛みを感じることができない。
それは他人の痛みもそうですが、自分自身の痛みにも気付かないことになってしまうのではないかと思います。
感情を受け止め、手放す。
主が導いてくだされば、わたしたちにもきっとできますよね?