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(外は一面、雪景色。このピンクがかった薄紫が、アドベント第3週のピンクのロウソクを思わせる。)

荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。
盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。
弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。
心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。
そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。
焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。
そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。
そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。
主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。
(イザヤ35:1−10)

 そのとき。
 キリストの初臨によって始まったことが、そのとき、完成される。今は苦しみや痛みの中にあっても、そのときには喜び歌う。そのときには、悲しみと嘆きは逃げ去る……
 そのとき。
 
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 ところで、今日はとても励まされるメッセージを読んだ。
-信仰とは何か 〜イザヤ46章〜  (from Let the Bible Speak by 山田和音さん)

 「信仰とは何か」という問いを立てて話を進めてきたのですが、信仰とは一体何なのでしょうか? 答えがひとつの問ではないと思います。あるいは、私達の信仰のあゆみ、人生の歩みとともにその答えは少しずつ変わっていく、ということもできるでしょう。カルバンの有名な信仰の定義があります。

「信仰とは、私たちへと向けられた神の慈しみについての着実で確かな知識である。」

彼の言葉を今の私なりに受け止めて言い換えると次のようになると思います。「私が神を信じられない時、神などいないと思えるとき、神がいたとしても私なんかは絶対に愛されてなどいないと思えるときに、それでもなお愛されているという知識、それが信仰である」と。


 このブログ主さんの洞察と、自らをそして神を、まっすぐに見つめているその眼差しの深さに、いつもハッとさせられる。 

 今回のメッセージも、神を偶像として自分で背負おうとしてしまう罪と、そこから私たちを解き放して私たちを背負ってくださる神の救いというコントラストに目が開かれた。さらに、上の引用箇所、信仰としての知識ということに、何か大きな励ましを覚えた。神の愛を知識としては知っているけれど、実感としてはわからないという人は案外少なくないかと思う。私も、神に愛されている「実感」がいつもあるのかと問われれば、必ずしもそうではないというのが正直なところかもしれない。

 それでも、神様が私たちを愛しておられるということは、確かに知識としては知っている。知識として知っているだけでは何か不十分のように感じることがあったけれど、そうか、神は私を愛しておられるということを知識として知っているというのも、信仰なのだ。それも、紛れもない信仰なのだ。

 このブログ主さんはこうも言われる。

神の恵み、ということを聞くと「あぁ、まだ私は恵みがわかっていない、だからダメなのだ」と自分に失望してしまう人がいると思います。何故そう言うかと言うと私がまさにそういう人だからです。「神様の恵みがあなたに注がれているよ、あなたは愛されてるよ」と語られても、それがイマイチすんなり受け止められない自分が悲しくなります。でも、誤解を恐れずに言えば、私がわかる分からないに関わらず恵みはそこにあるのです。白髪になってもなおわたしを背負おう、と言われるお方は「あなたがたといわたしの恵みを、愛をわからないとしても、それでもわたしはあなたを恵み、あなたを愛し、あなたを背負おう」と言われないでしょうか。


 アーメン。私たちのコンディションのいかんにかかわらず、私たちを背負ってくださるお方に感謝。たとえ感謝していないときでさえも、うらみがましい思いを抱いているときでさえも、それでも背負ってくださっているお方に、感謝。


 祈りを込めて。