アドベントに入り、今週はイザヤ11章1−10節に繰り返し思いを巡らせている。

 よくわからないけれど、この箇所は、前半と後半でイエスの初臨と再臨の両方を描いているみたい。 イスラエルへの約束の成就として、人となってこの世に来てくださるイエスを待つことが、「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」ことを成し遂げる王として再びやって来られるイエスを待ち望むことと重なる。

 そんなことに思いをはせる一方で、今年の私には、1節の「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」 という箇所が、なぜかとても心に響いている。

 この11月はジャングル状態になっていた庭に手を入れ、ライラックやアジサイなどいくつかの植物を植えたのだけれど、庭師さんが持ってきたのがまさに根株だった。一見すると、枯れ木の塊のように見える。根本には根っこがうじゃうじゃついていて(それが布で包まれている)、その上には枝が出ているのだけれど、茶色くて、葉っぱも枯れていて… こんな枯れた根っこを植えて、本当に来年花が咲くの?と心配になってしまった。(でも庭師さんは、1年間の保障付きなので、もし根がつかず、来年花が咲かなかったらまた植え直しますと言っていた。)そんな根株を見ていたせいだろうか、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」 という部分が、とてもリアルなイメージとして思い浮かんだのだ。うちの庭に植えたライラックやアジサイも、春になればその根株から新芽が生え、根から若枝が出て花を咲かせる(はず)。

IMG_1891
(これはモミジなのだけど、どう見ても枯れ木。)

 初冬に植えられたこの根株のイメージは、待ち望むということを、神様がすでに生み出したいのちが冬という一見して死のような時期を経て、なお生きながらえ、春が来れば芽を出し花を咲かせる、という期待・希望と結びつけてくれる。しかしそれは、遠足を待つように単純にウキウキ待つようなことではなく、厳しい状況の中でperseveranceやforbearanceのような、耐え忍びながら待つことを連想させる。木枯らしに吹かれ、吹雪に埋もれ、根雪の中で何日も何ヶ月も凍りつき…

 また、庭師さんが持ってきた苗はdormantと呼ばれる状態にあったもので、これは内側では着々と成長しているというよりは、一時的に眠りの状態、発育が休止している状態にあるもの。それでも状況が整えば、まるで死んでいたものが生き返ったかのように新芽を出す。これは、私にとってはみんの死を象徴するものでもある。キリストの死と重なるみんの死。今はイエスのもとで眠りの状態にあっても、キリストが初穂としてすでによみがえったから、みんもやがてよみがえるのだと私は知っているし、私たちもまた、いずれ肉体の死を経てももう一度よみがえるのだと知っている… 

 イザヤ書11章1節を読んでそのような連想をすることは、文脈を無視した読み方となるのだろうけれど、とにかく今の私が、今置かれている状況で、アドベントにこの箇所を読んだとき、上記のようなイメージと思いが与えられた。そして、神様からの慰めをいただいた。今年の私に対する、神様からの憐れみと慰めに満ちたリマインダーとして… 私はそれは、みことばと私の体験の両方をとおして、聖霊が語ってくださっているのだと信じる。私がより神様を信頼し、神様を愛する者となるよう形造られるために。

 今朝は、特にそんなことに思いをめぐらしつつ、神様との時間を楽しんだ。

IMG_1890