先日の続き。
 C-WITの招待状にこのように書いた。

静まりのリトリートでは、その大半を沈黙と黙想のうちに過ごします。情報が氾濫し、何もかもがフルスピードで回っているような現代の世の中では、私たちの脳が処理する情報量も、五感が感じる刺激の量も、飽和状態になっているのではないでしょうか。

「もっと走れ、もっと手に入れろ、もっと発信せよ、もっと成し遂げろ」と、常に私たちに迫ってくるこの世の価値観によって私たちの霊が形づくられることに抵抗し、聖霊の導きによってイエスに似た者へと形づくられていくためには、私たちはこの世とは違うペースを学ぶ必要があります。それは、イエスの教える「自然とわき上がる恵みのリズム」(マタイ11:29 メッセージ訳からの邦訳)です。

定期的に「沈黙」と「独りになる時間(solitude)」を持つことは、イエスの恵みのリズムに自分を預けることを学ぶために有益です。なぜならそれは、私たちを衝動的な言動や感情、また、さまざまなものへの依存から解き放つのによい霊的修練だからです。これは、すべてのキリスト者に有益ですが、特にリーダーにとっては不可欠でしょう。今回のリトリートのゴールは、「Do not accomplish anything and be okay with it!」です。

多くの刺激と情報にさらされ続けている皆さんの魂と身体を、ただ休めにいらしてください。

 
 そして、参加する方たちには、さらに次のようなメールをお送りした。

リトリートの当日には、レクチャー形式のセッションのほかに、実際に数時間の沈黙の時間を持ちます。沈黙といっても、禅僧がお寺で座禅を組むようなものではありませんから、ご心配なさらないでください。(恐れをなして参加を取りやめないでください! ^^)普段自分の心や思いや身体を占めている、さまざまな日常のケア(心配事・関心事・義務)から1日退いて、神様とゆっくり時間を過ごすことがゴールです。これを達成しなければならないといった目標はありません。何もしていない自分がいかにそのままで神様に愛され、ケアされているかを感じてほしいのです。

...(中略)...

また、当日おいでになるとき、自己紹介のときに使う物として、皆さんにある「物」を持ってきていただきたいと思っています。皆さんの信仰の旅路において、今いるステージを象徴するようなオブジェクト、あるいはどんなところを通って今いるステージに来たのかを比喩的に表すような何か、あるいは、今の皆さんの神様への切望、期待を象徴するようなもの… なんでもいいのですが、要は、皆さんの霊的歩みにおける、今、この時点での皆さんについて、他の参加者の方たちがその片鱗を垣間見ることのできるような「物」をお持ちいただきたいのです。1日の最初に、それを用いながらおひとりおひとりに簡単な自己紹介をしていただこうと思っています。よろしくお願いします。別のリトリートでこの方法で自己紹介をしたときの例をあげますと、ある人はレモン絞り器を持ってきて、「今の自分はいっぱいいっぱいなのに、さらに絞られている気がしているところです」と言っていました。別の人は水栽培のアボカドの種を持ってきて、「ちっとも芽が出てこないアボカドの種の水栽培をしながら、神様がなしてくださる御業を信じ、忍耐しながら待つことを教えられています」と言っていました。いかがでしょうか。皆さんなら何を持ってこられるでしょうか?

 
 そして、リトリート当日の2週間ほど前から、数日おきに全部で5回の「黙想の手引き」を配信した。(そのうちの二つが、先日こちらでもシェアしたもの。) 

 当日は、簡単な挨拶、説明、賛美から始めた。



 そして、みなさんに持ってきていただいた、それぞれの霊的旅路における自分の状態、神様との関係を象徴するオブジェを分かち合っていただきながらの自己紹介。
IMG_1811

 これが、みなさんが持ってきてくださったオブジェ。携帯がいくつかあるのは、携帯のアプリや、携帯の中にある写真をシェアしてくださった方たちもいたため。これを、この日の私たちの状態や神様との関係を象徴する私たちの祭壇として主の前に捧げ、そのような状態にいる私たちにこのリトリートを通して出会ってくださいとお願いした。

 それから、キリストの弟子にとって、神の王国に住む者にとって、なぜ沈黙とソリチュードが大切なのかということについての簡単な講義。ポイントは、私たちは福音の文化の民、神の物語の民となるよう召されているけれど、この世の文化・社会に日々さらされる中でどうしてもそこから多大なる影響を受けているので、それに対するantidote(解毒剤)としてソリチュードと沈黙が有益だということ。

 (1)To prevent the world from shaping us in its image.

 2)To become free from compulsion and addiction.

 3)To learn to be “present”.  


 実際に各自でソリチュードと沈黙と時間を持つ前に、まず私が強調したかったのは、次のことだった。

私たちがソリチュードに入っていくのは、何よりも主に出会い、主と、ただ主だけとともに過ごすためです。なぜ沈黙とソリチュードが大切なのかについてお話しましたが、今まで自分が十分に鎮まっていなかったことについて、反省したり自分を打ち叩くことに気を取られないようにしてください。それよりも、今日、今、静まる時間、機会が与えられていることを感謝し、それを十分に受け取ってください。先ほども言いましたが、自分自身や、周囲のものを意識する、感じる、気づくこと。そしてそれが私に何を語っているのかに注意を払うこと。それを通して与えられている神さまからの愛のこもったケアを受け取ること。神さまの愛の御声、眼差し、抱擁… この時間を有意義に、生産的にすごさねば、と感じる自分のニーズや衝動を手放すこと。何も達成しなくても、平気でいられること。心身が疲れているなら、主のケアの中で寝てしまってもかまわないのです…


 そして、御言葉をフォーカルポイントにしてのセンタリングの祈りをみんなでやってみた。(あえて、センタリングの祈り、という言葉は使わなかったけれど。)


 それから、沈黙の中での昼食。一緒に食卓についているのに会話をしないというのが苦痛だった人もいれば、全然平気だった人も。^^

 午後は、みんなでラビリンスウォーク。それから約1時間半、個々でのソリチュードと沈黙。外は風が強く、かなり寒かったのだけれど、果敢に外を散策された方たちも多くいた。多分私がいちばんヘタレで、ラビリンスを歩いたらさっさと屋内に戻り、暖かいお茶を飲みながらソファでしばらくお昼寝した…

 それからスモールグループに分かれて、ソリチュードと沈黙を体験してどうだったかの分かち合い。

 再び賛美。

 

 そして全体での分かち合いをし、今度は会話しながらの夕食のあと、解散。本当に満たされた1日だった。

 参加者の皆さんの分かち合いを聴きながら、神様がそれぞれの方々と、それぞれ今いるところで出会ってくださり、必要としている励ましを与えてくださったことがわかり、心から感謝だった。正直なところ、こういう試みが皆さん(特に若い世代の方たち)にどう受け取られるか、ちょっと心配していたのだけれど、神様は私の心配など軽く吹き飛ばしてくださった。ラビリンスウォークを通して、また沈黙の時間の神様との自然で親密な交わりの時間を通して、神様は皆さんにさまざまな洞察を与え、とにかく神様の愛を語りかけてくださったようだった。ヘンリ・ナウエンは、現代の私たちは、クリスチャンでさえも、この世の人々と同じように、忙しい人に与えられる報酬を自分の報酬として受け取りながら生きていると指摘していたけれど、このリトリートでは、何よりも神様のご臨在を慕い求める人に与えられるものを、一人ひとりが神からの報酬として受け取ることのできた時となったと思う。

 分かち合いの時間の皆さんの晴れ晴れとした表情、満たされた笑顔に、私自身どれほど励まされたことか。 また、寒々とした晩秋の景色の中で神様から暖かい語りかけをいただいたことも、とても意義あることだったように思えた。
 
 また、リトリート当日だけの霊的高揚に終わることなく、その後の神様との関係も深められ、祈りの時間が楽しみになってきたという嬉しい報告もいただいている。本当に感謝。

 I've tasted and seen of the sweetest of loves
 Where my heart becomes free and my shame is undone
 In your presence, Lord....