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 純粋な霊的修練とは、何の見返りも期待せずに、愛から出る従順を神にお捧げするものです。私たちの側からは何の条件もつけません。何の時間制限も設けません。その修練を通して、神に自分をどう変えていただきたいのかという期待も抱きません。ただ神にその修練をお捧げするのです。そして神がそれを続けてほしいと思われる限り、ずっとお捧げし続けるのです。…

 

 私たちが修練をお捧げし続けるとき、その修練は私たちの内に神の恵みが流れ込む手段となります。私たちの身体の死んだ部分が、キリストのかたちにあるいのちへと変えられていくために、神が働かれ、動かれるための手段です。ある朝あなたは目覚め、しばしば驚きを持って気づくでしょう。その修練はもはや修練ではなくなっていることに。今や、キリストにある新しいいのちへとよみがえらされたあなたという存在から、自然と溢れ出すものに変えられていることに気づくのです。キリスト・イエスを死者の中からよみがえらされたお方の霊、そしてあなたの内にも住んでおられる霊が、あなたの死んだからだをも生き返らせたのです。あなたが行ったのではありません。神がなさったのです。しかし神は、あなたが捧げた修練を通してそれをなさったのです。

——Robert Mulholland Jr. Invitation to a Journey (pp. 131, 133)


 霊的修練と言うとき、私はよく、「私たちのうちで御霊に働いて いただくためのスペース作り」だと説明する。その通りなのだけれど、一歩間違えれば、結局、自分の願う結果(変化)が自分の身に起こるために行う行為となり、修練すらもなお、自分で結果をコントロールするための努力になってしまう。しかしこのマルホーランドの説明は、そのような罠に陥らないようにすることを助けてくれるように思った。
 たとえば私は、つい、「もっと忍耐力のある人になりたいからこういう修練をしよう」というように考えてしまうのだけれど、私が行う修練が私をどう変えるのかは、本当に神様しだいなのだということを、改めて思い出させてもらった。


 今朝は、実はちょっぴり心が騒ぐことがあった。みんの化学療法のお休みが始まってから一ヶ月ほどになるが、夕べ、首のリンパにまた腫れが感じられるようになったとみんが言ったのだ。化学療法をお休みにした時点では、ほとんど何も感じられなかったのに、今ははっきりとグリグリがあるのがわかる、と。みんのガンがdormant(休眠状態)になってくれることを願って祈っていたけれど、治療を一ヶ月休んだだけで、もう動き始めたのかと思ったら、ショックだった。はたして12月まで治療再開を待ってもいいのか?とも思った。みんにそう言うと、「私はまだ再開したくない。せめて、期末試験が終わるまでは待ちたい」と言う。確かに、今また治療を再開したら、学校に行けなくなってしまうかもしれない。もちろん、学校よりも身体を治すことのほうが何倍も大切なのだけれど、彼女の気持ちもわかる。

 考えたくないことだけれど、みんの命があとどれだけあるのか… ドクターが当初言っていたように、本当にあと数年であるなら、みんが今やりたいと思っていることを犠牲にしてまで、アグレッシブに治療するのはどうなのか、とも思う。でも、アグレッシブに治療することで、寛解に至る可能性が出てくるのであれば、頑張ったほうがいいのではないかとも思う。わからない。本人の意志を尊重すべきだと思うけれど、それと同時に、それは私が難しい決断をすることから体よく逃げようとしているかのようにも思える。決めるのはやはり本人だと思うけれど、みんに丸投げにするのでなく、情報収集をしながら、一緒に考えていくしかない…

 今朝は、そんな思いを抱えながら神様の前に出た。 そうしたら、たまたま数日前に読んだ、上記のマルホーランドの言葉(「
純粋な霊的修練とは、何の見返りも期待せずに愛から出る従順を神にお捧げするものです」)が思い出され…
 うまく説明できないのだけれど、愛に満ちた神様の大きな御手の中にくるまれているのを感じた。状況に対する自分の支配を手放して、ただ神様の愛と善と憐れみの中にいさせてもらえることの感謝を覚えた。


今日の私のbreath prayerはこれ。

For Your love is…
better than life...
  (Ps 63:3)