先週の土曜日、JCFN主催のリーダーシップトレーニングキャンプの働きの一環として、1日リトリートを開催した。今回は沈黙とソリチュードを実践するリトリートだった。
 いくつか覚書として書き留めておきたいのだけれど、今日は、このリトリートに先立って参加者の方々に送った「聖書的リーダーシップについての黙想の手引き」の一部を記録しておく。全部で5つあるうちの、4つめと5つめのもの。

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(4)忙しさと衝動的な生活

 以下はヘンリ・ナウエンの『The Way of the Heart』からの抜粋です。

「私たちの日々のルーティーンを見てみてください。だいたいにおいて、私たちは大変多忙な人たちです。たくさんのミーティングに出席し、いろいろなところへ出かけ、多くの働きを導きます。カレンダーには予定がびっしりとつまり、毎日、毎週、やることがたくさんあります。一年を見渡せば、計画とプロジェクトが目白押しです。するべきことが特にない、といった期間はほとんどありません。そして、私たちはあまりにも注意散漫な状態で生活を駆け抜けていくため、自分たちが考えていること、語ること、行うことは、本当に考えたり、語ったり、行うだけの価値のあるものなのか、立ち止まってゆっくり考える時間もありません。私たちは、他の人たちから押し付けられたたくさんの「~しなければならない」と「~するべきである」を真に受けて、必死でそれらを行おうとします。そして、あたかもそれらが私たちの主の福音から当然導き出される行為であるかのように生きているのです。…(中略)…このように私たちは、忙しい人たちに与えられる報酬を自分たちへの報酬として受け取って、この世の忙しい人たちと何ら変わることがありません。 これらのことは、私たちのクリスチャンの働き人としての生活が、いかにひどく世俗的なものになってしまいがちであるかを示唆するものです。なぜそうなってしまうのでしょうか? なぜ光の子供たちである私たちが、そんなにも簡単に暗闇の共謀者になってしまうのでしょうか? 答えは極めて単純です。私たちのアイデンティティー、すなわち私たちが持つ「自己」の感覚が、忙しくしていることにかかっているからです。自分の価値が、自分が置かれる環境からの反応に依存するようになるなら、それは世俗主義です。世俗的な自己、すなわち偽りの自己とは、トーマス・マートンの言葉で言えば、社会的衝動によってねつ造された自己です。実際「衝動的」とは、偽りの自己を言い表すのに最も適した形容詞です。それは、承認されることを絶えず必要とし、その必要はどんどん強くなる一方なのです。」


 ナウエンは「私たちは、他の人たちから押し付けられたたくさんの『~しなければならない』と『~するべきである』を真に受けて、必死でそれらを行おうとします」と言っていますが、あなたはそれに同意しますか? あなたの生活は、それらのものに占領されていますか? もしそうなら、それらはどんな『~しなければならない』や『~するべきである』ですか? それはどこから出てきていると思いますか? それをしなかったらどうなると思いますか?不要な『~しなければならない』や『~するべきである』から自由になるためには、どうすればいいと思いますか?

 またナウエンは、そのような生き方の背後には私たちの「承認願望」があると言っていますが、あなたはどう思いますか?

 これらのことについて、祈りの中で神様に尋ね、語り合ってみてください。

(5)沈黙について

 現代人の生活では、音のない静かな環境とは、非常に見つけにくくなっているようです。たいていの場所にはBGMが流れていたり、テレビやラジオがついていたりします。人々の声や雑踏のざわめきがあります。自分の家でも、車を運転しているときも、歩いているときも、音楽やポッドキャストが私たちの耳元で鳴っているのではないでしょうか。

 また、インターネット、特にソーシャルネットワークの登場で、自分の考えを「発信」することが、非常に簡単になりました。他愛のない独り言のようなことでも、どんどん発信できます。事件が起これば、誰もがいち早く自分の意見を表明しようとします。話題のトピックにすぐに乗らないと、取り残されてしまうかのようです。声を発することで自分の存在を確認し、アピールしたいのかもしれません。

 沈黙は「忍耐」と「待つこと」を私たちに求めます。それは私たちにとってあまり心地の良いものではありません。生産的に感じられないからです。何もしていない、つまり、無駄な時間のように思えます。また、黙っていると、あたかも自分が無力で無能であるかのように思えるかもしれません。そのため、沈黙があると、私たちはそれを何かで埋めようとします。時間を「無駄」にしないように、沈黙している間でさえも何かを達成しようとします。

 しかし、私たちが一時間、一日、あるいはそれ以上長い時間沈黙していても、世界が止まってしまうわけではないのです。世界は私たちの声を聴かなくても、王なるイエスの究極的支配のもとで、着々と回っていきます。私たちの注意を引こうとするものはたくさんありますが、私たちはそれら一つひとつに応えようとするよりも、むしろそれらのものを脇に置き、ただイエスにだけ私たちの思いを集中させることを学ぶほうが、結果的には自分だけでなく、自分がリードしている人たちのためにもなるのではないでしょうか。「沈黙」の修練は、それを可能にするものです。

 あなたと「沈黙」の関係はどのようなものですか? あなたは沈黙を歓迎しますか、それとも沈黙を避けようとしますか。どのように歓迎しますか、あるいはどのように避けようとしますか? 

 あなたの普段の生活の中に、沈黙の時間(テレビや音楽などの音もなく、自分も言葉を発しない時間)はどれくらいありますか? 
 もしも独りきりで、電波も何も届かない場所で、本も、何のプロジェクトも持たずに一日を過ごすとしたら、どう感じると思いますか?  どうしてそのように感じるのだと思いますか?
 聴覚や視覚などに障がいのある人は、それ以外の感覚がより鋭敏に発達すると聞いたことがあります。もしあなたが沈黙の修練を定期的に持つならば、あなたの中でどんな感覚が研ぎすまされるようになると思いますか?

 これらのことについて、祈りの中で神様と語り合ってみてください。 

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寒空の下、みんなでラビリンスも歩きました。