Pope_Francis_South_Korea_2014

 昨日CNNで、バチカンが火葬に関するガイドラインを出したというニュースを読んだ。

-Vatican issues guidelines on cremation, says no to scattering ashes

-ローマ法王庁、火葬の新指針を発表 散骨や自宅保管は認めず


ローマ法王庁(バチカン)は25日、カトリック信者の埋葬に関する新しい指針を発表し、火葬後の遺灰を海にまいたり自宅に置いたりしてはいけないと規定した。
新しい指針では、火葬後の遺灰は教会の墓地など「神聖な場所」に収めなければならないと説き、遺灰を親族の間で分けたり、遺品やジュエリーなどに入れるなどして保管することは認めない方針を打ち出している。

カトリック教会では何十年も前から火葬を容認してきた。しかし今回の指針には、火葬が「死についての誤った考え」を生じさせかねないというローマ法王庁の懸念がにじむ。現代社会で死後の生に関する世俗性が強まる傾向や、遺灰を軽く扱って寺院など神につながる場所に納めず、遺族のための記念品に入れるといった行為に対して警鐘を鳴らす意味合いが込められた。 
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米国では遺灰を散弾銃の銃弾に込めたりダイヤモンドに仕立てたりするサービスも登場。遺灰を樹木の下に埋葬したりサンゴ礁にまいたり、宇宙へ打ち上げたりすることを望む人もいる。
 
だがそうした行為は冒涜(ぼうとく)的だと指針では断じている。
 
カトリックの教えでは、人は肉体も魂もすべて復活する。指針では火葬について「神がその全能性において遺体に新たな生命を与える妨げにはならない」としながらも、死者の体が神聖なものとして扱われない懸念を生じさせると指摘。「教会は遺体を埋葬(土葬)することによって、その遺体のよみがえりにおける信仰を確かなものとし、その人格の一部としての肉体に対する多大な尊敬の念を示すことを意図している」とした。
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 うわあ、うちはみんの遺灰は自宅に保管しているし、エミとま〜やにはミニ骨壷に入れてもたせている。みんの一番の親友たちにも遺灰ネックレスを受け取ってもらった。

 でも、ローマ教皇の懸念はよくわかる。確かに、遺灰を海や山に撒くというのは、どこか汎神論な感じがして、私も抵抗があった。そして、米国では(たぶん日本や他の国でも)遺灰・遺骨グッズやサービスが、確かにたくさんあることを、みんの死後に知って私も驚いたものだった。けっこうなビジネスになっているのだ。まぁ、需要があるからだけど。

 遺族が愛する人の体の一部をそばに置いておきたい、身につけていたいというのは、死者の身体を冒涜することにはならないと思うけれど、散弾銃の弾に詰めたり宇宙に打ち上げたりというのは、確かに奇妙ではある。生前に本人がそのようにリクエストしたというならともかく。

 それにしても、私はローマ教皇のこの声明にはちょっとしびれた。素晴らしいと思った。CNNのニュースを見たら、レポーターが「Bodily resurretion」を連呼していて、感動してしまった。


 "After death, there will be bodily resurrection, so the body is very important to the value. Not just you live on after death but there at certain point will be a resurrection of people's bodies as they are today."

 "as they are today"というのは、ちょっと違うけどね。もはや朽ちることのない身体になるのだから。朽ちることもなく、病に冒されることもない、栄光の体。NTライトは、復活後の身体は、現在の身体よりもより身体的、よりリアルなものであろうと言っていた。
 
 身体を伴う復活があるのだから、身体は神聖なものであり、死後の身体も冒涜的な扱いをすべきではなく、神聖な場所に安置すべき…
 
 こういうことをはっきり言える教皇フランシスコはやっぱりすごいなあ! 

 個人的には、遺灰を物品のごとく扱うのは確かに感心しないし、大切に扱うべきだと思うけれど、だからといって、自宅に保管したり、遺灰ネックレスに入れて身につけたり、家族間で分けることが、死者の身体を冒涜することにはならないと思うので、そのようにしたことに責めは感じない。それに、みんの死の直前、私は合言葉のように、「一緒によみがえろうね」とみんに語りかけていた。

 それでも、愛する人が亡くなったとき、お葬式をどのように執りおこなうかだけでなく、その後の遺体の扱い方によっても、福音の宣言、神様の素晴らしいご計画の宣言が可能であるとは思い至らなかった…

 このヴァチカンからの声明を聞いて、復活の希望が改めて胸に迫った。感謝。