ヘンリ・ナウエンの「主の憐れみを叫び求めて(A Cry for Mercy)」(あめんどう)を再読中。

 これは、ナウエンによる「唯一の」祈祷集らしい。帯には「四旬節に始まり、復活祭、昇天祭に沿って記録された迫真的な魂の記録」とある。

 確かに、これらは優等生的な祈りではなく、神様を慕い求める思いと恐れ混乱するナウエンの思いが、交錯しながら赤裸々に綴られている。

 たとえば…

 …どうか私を、惨めな、ごちゃごちゃな私の心をご覧ください。そして、この混乱のただ中にも、あなたがおられることを悟らせてください。私にできることは、この姿をあなたの前にそのままお見せするだけです。でも、なかなかできません。あなたがこんな私を拒否なさるのではと恐れています。それでも、信仰の知識で知っていることは、あなたが私を愛したいと強く望まれていることです。あなたが求めていることは、あなたから私を隠さないこと、絶望して逃げ出さないこと、そして、あなたが非常な暴君であるかのように私がふるまわないこと、ただそれだけです。…

 主よ、今日、私の心は激しい恐れでいっぱいです。私の全存在が恐怖に襲われているかのようです。平安もなく、安息もありません。あるのはただ恐れです。頭がおかしくなるのではという恐れ、間違った生き方をしているのではという恐れ、拒絶への、断罪への恐れ、そして、あなたへの恐れです。…

 なんと正直な…。でも、この恐れに関するナウエンの祈りは、そのあと、恐れている人たちに満ちたこの世界のためにとりなしたいという祈りに変えられている。ナウエンが正直に自分の思いを神様の前に吐露する中で、聖霊が彼の恐れを贖い、変えていっているのが見える…

 …主よ、この世界は恐れで満ちています。どうか私の恐れを、恐れている人々のための祈りに変えてください。そうなれば、私の闇は彼らの光となり、私の心の痛みは彼らの癒しの源となるかもしれません。
 主よ、あなたも恐れをご存じです。深く悶えなさいました。あなたの汗と涙はあなたの恐れのしるしでした。主よ、私の恐れをあなたの恐れの一部としてください。そうすれば、それは私を闇にではなく光に導き、あなたの十字架の希望に対する新しい理解を与えてくれるでしょう。アーメン。
 
 また、次の祈りには、読むたびにハッとさせられる。

 主よ、あなたについて考えたり神学的な思索や議論に魅了されたりすること、キリスト教霊性の歴史に熱中したり、祈りや黙想についての考察や着想に興奮したりすること、これらすべては、食物、財産、権力へのあくなき欲望にも似た貪欲の表れかもしれません。

 毎日くり返し悟らされていることは、あなただけが私に祈りを教え、私の心を静め、私を御前に置いてくださる方だということです。どんな書物も、どんな着想、概念、理論も、あなたご自身がそれらをあなたへの道としてくださらなければ、あなたのそばに引き寄せてくれません。


 聖書や神様に関する思いであればなんでも清い、というわけではないことにドキッとする。知識欲のある人なら、聖書や神様について新しい知識や洞察が得られることに喜びを感じるだろう。でもナウエンは、それも貪欲の表れかもしれないことを示唆する。そして、本当にその通りだと思う。

 どんな書物も、どんな着想、概念、理論も、どんな洞察も新しい知識も修練も、それが私たちをキリストに似た者へと変えてくれるのでなければ、そのような道へと導いてくれるのでなければ、結局は自我の求めを満たすものにしか過ぎない。

 この本にあるナウエンの祈りには、私も心を探られる。 と同時に、私もこれらを自分の祈りとして祈らせてもらえることを、ありがたく思う。

 主よ、憐れんでください。 

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