1ヶ月間の日本滞在から、昨日無事に帰ってきた。とても祝された旅だった。それについては、また後日改めて書くとして、今日はちょっと、思うところがあり、以前書いた「魂の暗夜」に関するものを再掲する。


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  • 2014年12月30日のポストより


今、クリスチャンの精神科医で、Shalem Institute for Spiritual Formationのスタッフのジェラルド・メイという人が書いた『The Dark Night of the Soul: A Psychiatrist Explores the Connection Between Darkness and Spiritual Growth』という本を読んでいる。これは、タイトルが示唆するように、十字架のヨハネの「魂の暗夜」を始めとする著作およびアビラのテレサの著作をひもときながら、魂の闇夜や霊的形成について語る。十字架のヨハネの言う「魂の暗夜」を簡単に説明するのは難しい。簡単に言ってしまうと、そこに含まれる深さが削ぎ取られてしまいそうで。


 それについてはまた別途、別の日に書いてみたいと思うけれど、今日はこれだけ。この数年間私が通っていたプロセスは、どうやら魂の暗夜だったのかもしれない、ということ。神様の御臨在が感じられなくなる、というわけではなかったので、自分ではそれが魂の暗夜だとは気づいていなかったのだけれど… でも、そう思うと、この過去4年くらいの間に私が通っていたことに合点がいく。魂の暗夜を通ることの意味の一つは、余計なものが取り去られること。自分が握っていたもの、しがみついていたもの、偶像としていたもの… もちろん、まだそれらのすべてが取り去られたわけではないけれど、いくつかはもはや握りしめようがないほどに見事に粉砕された。


 それから、この数年間私が特に葛藤していたことの一つは、「祈りの答えとして与えられたものを、神様ご自身が取り去ってしまう件」だった。(そのことについては、たとえば去年のブログ記事「欺かれても本望」などを参照)私はそのことで何度も神様に訴えていた。ジャーナルにもこう書いたことがある。「神様、あなたがそのようなことをなさると、私とあなたの信頼関係にヒビが入ると思いませんか? なぜそんなことをなさるのですか?」でも、神様がこの問いに答えてくださったことは一度もなかった。ところが夕べ、ジェラルド・メイの本を読みつつもう一度そのことに思いを巡らせていたとき、突然主が語られた。「それはね、祈りの答えは祈りの答えであって、わたしではないからだよ。わたしははちこに、祈りの答え以上に、わたし自身を受け取ってほしかったのだ」 祈りの答え以上に、神様ご自身を受け取ること… なんという難しい課題を、神様はいつの間にか私に課しておられたのだろう。でも、正直なところ、もはや私は、祈りの答えというものに、あまり執着しなくなってきた気がする。今の私は、「祈りは聞かれる!」とか、「Prayer works!」といったことにもほとんど興味がない。いろいろな願いを、確かに神様の前に持っていきはするのだけれど…


 「主よ、今ごろそんなことを言われても… 私がどれだけ辛い思いをしていたか、ご存知だったでしょうに」「もちろん知っていたよ。どれだけ手を差し伸べたいと思っていたことか。でも、そんなことをしたら、はちこの成長をはばむことになってしまう。手を差し伸べることはしなかったけれど、ずっとずっとはちこのすぐそばにいて、ずっとずっとはちこを見つめていたよ」 ああ、主よ。知っていました。私は知っていました。あなたがずっと私のそばにいてくださったことを。あなたはいろいろなところに、ヒントを落としていてくださいましたから。思いがけないときに、思いがけない場所に、あなたの足跡を、御手の跡を、残していてくださっていましたから。あのことも、このことも、あなたがなさっていたことだと、主よ、私の魂は、そのことをわかっていました。


 主よ、私は今、違うものを見ています。過去数年間見て来たものとは違うものを見ています。あなたは今、私に別の景観を見せてくださっています。それは、まだぼやけていますが、去年までいた場所とは違う場所にいることはわかります。 ああ、主よ、愛しい方よ、私のこの小さな心が、あなたから逸れることがありませんように。あなた以外のものに、目を、耳を、心を、たましいを、奪われることがありませんように。あなたが見せてくださるものだけを見る目を、あなたが聞かせてくださるものだけを聞く耳を、あなたがくださるものだけを受け取る手を、あなたが導いてくださる場所にだけ行く足をください。


 Oh Jesus. I. Love. You.





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  • 2015年2月7日のポストより


しばらく前にも書いたように、ジェラルド・メイというクリスチャン精神科医が書いた「The Dark Night of the Soul」という本を読んだ。これは、十字架のヨハネの『暗夜』という有名な著作を、現代人に分かりやすく説明したもの。ヨハネが書いたほうのものは読んだことがないのだけれど、読んだことのある人によると、かなり難解らしい。なので、このように分かりやすく説明してくれる本はありがたい。


 前回この本に言及したときは、「十字架のヨハネの言う「魂の暗夜」を簡単に説明するのは難しい。簡単に言ってしまうと、そこに含まれる深さが削ぎ取られてしまいそうで」と書いた。でも今日は、ちょっとメモしてみようかと思う。


 私は、「魂の暗夜」とは、祈っても祈っても、神様から何の答えも手応えも得られない、神様から見捨てられてしまったかのように感じる、信仰の歩みにおける「乾いた」季節のことかと思っていた。でも、ヨハネが「暗夜」と呼んだのは、そういう「辛い体験」自体のことではなかったことがわかった。


 ヨハネが「暗夜」と呼んだのは、私たちが、自分の内側でなされている神様の働きや御業に気づかないでいること、理解を持たないでいることを指すためだった。「暗夜」というのは、神様の内なる働きに対する、私たちのいわば無知・無自覚を指す。


 そのような暗夜は、苦しみや試練を通るときに起こるかもしれないし、喜びや楽しみを通るときに起こることもある。いずれにしても、私たちは、それらの体験を通して、神様が何をなさっておられるのか、私たちをどうトランスフォームなさろうとしているのか、どんなご計画を成し遂げようとしておられるのか、気づいていないことがある。メイは、神様があえて私たちに自覚を与えないのは、もし神様がなさろうとしていることを知ったなら、私たちはそれに抵抗したり、自分の手で特定の結果を得ようとしてしまうかもしれないからだろうと言った。「To guide us toward the love that we most desire, we must be taken where we could not and would not go on our own.」あらかじめどこに連れて行かれるのか知っていたら、絶対行きたいとは思わないようなところに、神様は私たちを連れて行く… だから私たちにはわからないように、闇の中でそっと連れて行く… そう言われてみると、自分の歩みを振り返ってみても、あのときは成長させられたなぁと思うような出来事ほど、代え難いほどに貴重な体験だったし、そういう所を通ってきたことを今でこそ感謝できるものの、自分から進んで入っていきたいような体験ではなかった。同じところをもう一度通りたいかと言われれば、遠慮しますと言いたくなることが多い気がする。


 ともかく、十字架のヨハネが意味していた「暗夜」とは、暗く辛い体験という意味ではなく、私たちには神様のなさることが見えていない、ということであるらしい。


 暗夜は、私たちが何よりも神ご自身を愛するようになるところへと導く。私たちは生活の中で、外的にも内的にも、さまざまなものに執着しているが、闇夜を通らされる中でそれらの執着を手放すことを学ぶ。 


 「感覚の夜」では、外側にあるものへの執着からの自由を得る。たとえば、五感から得られるような各種の満足感、人や物への執着など。


 「霊の夜」では、自分の内側にあるものへの執着からの自由を得る。たとえば、自分が当然のように持っていたある種の期待や前提、自分を縛っている記憶や恐れなど。


 たとえば、神様に深く触れられるなら当然感じるであろうと思っていた感情的な高ぶりが削ぎ取られるかもしれない。新しいことを学んでいるという手応えが削ぎ取られるかもしれない。その意味では、確かに「乾いた」「孤独な」季節なのだけれど、そこを通ることで、私たちの神体験は、もはや自分の感情や特定の期待に依存することのないものになっていく。神様ってこういうお方、神様はこのように私を満たしてくださる、神様に触れていただくと私はこういう反応をする…などなど、信仰の歩みの中で、自分の中に確立してきたものがくつがえされるとき。もはや意味をなさなくなってしまうとき。私たちは、自分が持っていた神の概念や神のイメージや神の感覚ではなく、神ご自身と出会うことができる。先日、与えられたと思った祈りの答えが取り去られたとき、辛くて苦しくて神様に泣き叫んでいたとき、神様から「祈りの答えではなく、わたしを受け取ってほしいから」と言われた、ということを書いたけれど、それは私にとってまさに魂の暗夜の体験だったのだと気づかされた。


 "The dark night of the soul is an ongoing transition from compulsively trying to control one's life toward a trusting freedom and openess to God and the real situations of life. .... the feelings of aridity and emptiness are the birth pains of a freer life and deeper prayer."


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 まさかこの2ヶ月後に、我が子がステージ4のガンの宣告を受けることになるとは…


 現在、みんの化学療法は、隔週で治療を受けることを6回繰り返し、一ヶ月休み(ここまでで、治療開始前に3900あった腫瘍マーカー[C19-9]が91にまで下がった)、また次の6回セットを始めたうちの、3回めが終わったところ。マーカーは120。すこ~しずつだけ上がっている。まぁ、マーカーの値に一喜一憂する必要はないと言われているので、あまり気にしていないけれど。ただ、今まであまりひどくなかった副作用が、今回は辛そうで、心持ち食欲が落ちてきた気はする。それでも、昨日は友人たちと、シカゴのHouse of Bluesであった、One OK Rockとかいう日本のロックバンドのコンサートに行った。とても楽しかったみたい。


 葛藤すること、わからないことはいろいろある。でも、私は神ではなく、神が神であり、私がすべてを把握している必要はないということに、助けられている。


 わからないことをわからないと認めて、平気でいられるというのは、自由なことだ。そして、その自由の中で、祈りたくなる。祈りの答えを得るためにではなく、ただあの方と、一つになるために。