山崎ランサム先生のブログで新連載が始まった。グレッグ・ボイド師のBenefit of the Doubt:Breaking the idol of certaintyという「本の紹介という体裁を取りながら、真に聖書的な信仰のあり方とは何かということについて考えていきたい」とのこと。とても楽しみ。^^




 以前、私もちょっと疑いについて書いたことがあったのを思い出したので、再掲。これは多分、山崎ランサム先生がこれからお書きになることとは違う話だと思うけど。




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マルホーランドの本、「Invitation to a Journey」より。マルホーランドが引用していた文章。



‎The essential difference between orthodox Christianity and the various heretical systems is that orthodoxy is rooted in paradox. Heretics, as Irenaeus saw, reject paradox in favor of a false clarity and precision. But true faith can only grow and mature if it includes the elements of paradox and creative doubt. Hence the insistence of orthodoxy that God cannot be known by the mind, but is known in the obscurity of faith, in the way of ignorance, in the darkness. Such doubt is not the enemy of faith but an essential element within it. For faith in God does not bring the false peace of answered questions and resolved paradoxes. Rather, it can be seen as a process of "unceasing interrogation." ... The Spirit enters into our lives and puts disturbing questions. Without such creative doubt, religion becomes hard and cruel, degenerating into the spurious security which breeds intolerance and persecution. Without doubt, there is loss of inner reality and of inspirational power to religious language. The whole of spiritual life must suffer from, and be seriously harmed by, the repression of doubt. (Leech, "Experiencing God")



疑いやパラドックスは、健全な信仰の中にあってしかるべきもの。それをなくそうとすると、無理につじつまを合わせようとすることで、結局偽りの平安や間違った答えに到達することになってしまう。ご自身を「不思議」と名乗られる神(士師13:18)は、ミステリー(奥義)の中におられる。疑いや疑問や矛盾を排するのでなく、その中で絶えず神に問い続けること… それでも、私たちが納得するような形で神様が答えてくださるとは限らない。もしかしたら神様を見失ったかのように感じるかもしれない(「魂の闇夜」)。しかし、そのプロセスを通して、自分の手の中にとどめておきたかった「支配」を手放すことを学び、より成熟した霊性が養われていく…


 イエスはニコデモに、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われた。(ヨハネ3:3)ニコデモは神を知らない異邦人ではなく、パリサイ人だった。パリサイ人とは、律法を熟知し、それを忠実に実践していた人たち。彼は、神について、御言葉について、よく知っていたはず。そのニコデモに向かってイエスは、新しく生まれることの必要を語った。マルホーランドは、人はときとして、自分の中に確立させた神理解(神について信じていること)が邪魔になって、神に真に近づけなくなることがある、と言う。(あるいは、神の側がそのような人に近づけない。「しかし、イエスはご自身を彼らにお任せにならなかった。"Jesus did not entrust himself to them."」ヨハネ2:24)


 イエスはニコデモに「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」と言われた。(ヨハネ3:8) ところがニコデモは、いわば「風」がどこから来てどこへ行くか、すべて自分で把握していた。つまり、ニコデモは、神と自分の関係を、御霊にゆだねるのでなく、すべて自分の支配の中に抱え込んでいた… ニコデモにとって神との関係は重要なものであったのだろうが、その関係は、ニコデモ主導だったのだ。


 マルホーランドは、ここでイエスがニコデモに語っているのは、「You must let God have control of the relationship. You must let the wind of the Spirit blow your life along God's path, not yours(神との関係を自分で支配しようとせず、神に委ねなさい。あなたの道ではなく、神の道に沿って、御霊の風に吹かれて歩みなさい)」と言うのに等しいと言っている。


 マルホーランドの考察はさらに続きますが、「私の信仰」「(私が確立してきた)私と神様の関係」を手放し、神様主導の関係に入っていく、ということから強く語られるものがあったので、とりあえずこの部分をメモしました。