山崎ランサム和彦先生が、ブログで「『主の祈り』を祈る」という連載をしておられる。




 このシリーズも、これまでのものに違わず素晴らしい。N.T.ライトは「Simply Good News」の中で、主の祈りを祈ることは福音を祈ることだ、というようなことを言っているのだけれど、山崎ランサム先生のこのシリーズは、それがどういう意味なのかをわかりやすく教えてくださる。


 特に、今日更新された「『主の祈り』を祈る(7)」にはこのようにあり、私は目の覚める思いがした。



私たちの物質的な必要が満たされることは、神の国の到来と無関係ではありません。人間の生存には衣食住といった必要があることは天の父はご存知であるとイエスは言います。つまり、神のみこころはすべての人が物質的に乏しいことのない生活をおくることであると言えますが、その神意は地上においてはいまだに実現していません。聖書では社会における経済的不正は厳しく断罪されています(たとえばアモス4章1-3節)。このような文脈で考えるならば、貧しい人々の日々の糧が与えられるということは、神の義なる支配が地の上に実現することの一つのしるしであると考えることができます。





そして、ここで祈るように教えられているのが「私の」糧ではなく「我らの」糧であることは大変重要です。私たちは自分の、あるいは自分の家族や身近な人々の必要だけを求めていくのではなく、他の人々の必要も満たされるように祈っていく必要があります。現在世界の多くの国々で多くの人々が飢えと貧困に苦しんでおり、経済的な搾取がいたるところで行われています。私たちは飢えと貧困に苦しむ人々のために祈らなければならないと思いますが、これは社会における不正がただされるようにという祈りでもあるのです。



 主の祈りでは、祈り手が「われら(We)」という複数形であることは意識していたけれど、あくまでも(神様を「父」と呼ぶ)クリスチャンが祈る祈りだから、この祈りで祈る内容がそれ以外の人たちにも及ぶとは、あまり考えたことがなかった。しかし、山崎ランサム先生が指摘しておられるように、主の祈りを、天でそうであるように地においても「御国を来たらせたまえ。みこころをなさせたまえ」の文脈で祈るならば、私たちの必要が満たされることを祈るときも、当然地上のすべての人たちのことが念頭におかれることになるはず。主の祈りを祈る人が、他者の空腹に無頓着でいるなら、それは確かにおかしい。


 私たちがこの祈りを祈るとき、神様は私たちに何とお応えになるのだろう。少年が自分の持つわずかな食べ物(五つのパンと二匹の魚)を差し出したとき、天の父がそれを祝福して大勢の人々の空腹を満たしたように、私たちも、自分に差し出せるものはこの世界の莫大なニーズからしたら焼け石に水でしかないと言って最初からあきらめるのでなく、私たちが差し出すものを祝福してくださる御父に信頼して、持っているものを差し出すように招かれるかもしれない。あるいは、貧しい人たちから搾取している企業の製品を避け、できる限りフェアトレードの製品を購入するように導かれるかもしれない。我が家もコーヒーなどはなるべくフェアトレードのものを買うように努めているが、それと主の祈りが結びつくとは考えたこともなかった。


 私はこれまでもこのブログで、神様は私たちの霊的な必要だけでなく、身体的・物質的な必要もご存知であり、満たしてくださるお方だということを書いてきた(たとえば、2013年5月16日の「Shalomic peaceとStoic apatheiaについて」。)しかし私はいつも、あくまでも自分や自分の家族といった、狭い範囲でしか考えていなかった。


 今日は、山崎ランサム先生のブログ記事によって、さらに大きな枠組みをいただいた気持ち。感謝。