先日の「泥棒猫を追い払うように」の記事に関して、ある方から、「でもパウロは悪魔を猫ではなく『ほえたける獅子』と表現してますよね」というコメントをいただきました。


 その通りですよね。私が言及した本の著者も、悪魔が泥棒猫くらいの存在と言っていたのではないと思います。私が彼女の本を読んで思ったことは、泥棒猫を追い払うようにシッシッと追い払うというのは、悪魔の手下たちが私たちに打ち込んでくる火矢(エペソ6:16)を、無防備にまともに受けるのでなく、それらをさっさと払い落とす、というイメージかなぁということでした。


 ケンは幼稚園から小学校低学年のころ、空手のクラスを取っていました。そこで相手の攻撃をかわすための手の動きなどを教えてもらっていました(映画Karate Kidsの中で出てきた、"Wax on, Wax off"みたいな動き)。私がボランティアでケンの教室でお手伝いをしていたとき、クラスメートの女の子がケンをくすぐろうとしました。するとケンは、反射的にWax onの動きをして、その女の子の手を払いのけました。女の子の手が自分の身体に向かって伸びてきたときに、反射的にそれを払ったのですね。かっこ良かったです。(笑)その動きを十分に習得することで、その都度頭で考えなくても、攻撃してくる手から反射的に自分を守ることができるのですね。


 修練を積んでよく整えられた人とは、こういうことかなぁと思わされます。私たちは敵の陣地の中に駐屯する前哨軍のようなものです。悪しき者が打ち込む火矢はしょっちゅう飛んできます。それをその都度まともに受けてはいられません。嫌味な物言いをする人の言葉にいちいちムッとしたり、道路が混雑していてなかなか先に進めないときにいちいちイラッとしたり、仕事の最中にパソコンやプリンターが壊れていちいち大騒ぎしたり(私もやってしまうのですが 汗)、他の人が昇進したり注目を浴びているのを見ていちいち心の中で妬んだり、無神経な人の言葉にいちいち傷ついたり…そんなことでは私たちが本来なすべきことはちっとも先に進まないですし、何より、心から喜びや平安が奪われます。


 しかし、霊的修練を積んでよく整えられた人は、良き羊飼いであり、力強い王であるイエスへの信仰によって心が守られ、そういった火矢が飛んできても、いちいちリアクトすることなしに、さっさと払い落とすことができるのではないかなぁと思うのです。誰かに感じの悪い態度を取られても、物事が期待したようにスムーズに進まなくても、突然のショックな出来事に見舞われても、主を見上げてNo worries, all shall be wellと言えるなら、火矢はたちまち地に落ちてextinguishされるでしょう。(もちろん、敵からの攻撃のすべてが火矢のようなものではなく、中には本当に厳しく困難なものもあるでしょう。それらに対しては、私たちは無傷では済まされないこともあるでしょうが、それでもやっぱり、究極的に(At the end of the day)、All shall be wellだと、私は信じるのです。)


 また、敵の狙いの一つは、邪魔を入れることで私たちの働きを潰すことというよりも、私たちの日々の暮らしの中から喜びや平安を奪うことかもしれないと思ったりします。たとえ働きそのものは成功しても、その途中で喜びや平安がなかったり、仲間うちで険悪になったりしていたら、敵は十分「してやったり!」と思うのではないでしょうか。また、たとえプロジェクトやミニストリーなどが成功しても、私たちが神様から離れてどんどん自力でそういったことを追い求めるようになったり、成功ゆえに高慢になったり他者への愛が冷めていくなら、やはり敵は「してやったり!」と思うでしょう。


 ダラス・ウィラードの問いを思い出します。





  • Am I growing more or less easily irritated these days?

  • Am I growing more or less easily discouraged these days?



 さらにこんな問いはどうでしょう?




  • Am I growing more or less loving toward others these days?

  • Am I growing more or less dependent on the Lord these days?


 泥棒猫にいちいちリアクトしない、よく整えられた心を持つ者になりたいです。


 このブログをいつも読んでくださっている方々は、もう見飽きたかもしれませんが(笑)、私はいつもいつも、この二つのイメージに戻っていくのです。


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 そして最近、よくこの祈りも祈ります。これは、敵が火矢のつもりで打ち込んだものが、主の前にへりくだることによって私たちのトランスフォーメーションの機会へと変えられることを願う祈りかもしれませんね…


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