"The soul is like a wild animal…tough, resilient, resourceful, savvy, and self-sufficient: it knows how to survive in hard places. Yet despite its toughness, the soul is also shy. Just like a wild animal, it seeks safety in the dense underbrush, especially when other people are around. If we want to see a wild animal, we know that the last thing we should do is go crashing through the woods yelling for it to come out. But if we will walk quietly into the woods, sit patiently at the base of a tree...the wild creature we seek might put in an appearance." ~ Parker Palmer "A Hidden Wholeness"


魂とは、野生動物のようだ。強く、回復力があり、臨機応変で、しっかり者で、自立している。困難な状況でもどうやって生き延びたらいいか分かっている。しかしその頑強さにもかかわらず、魂は恥ずかしがり屋でもある。まさに野生動物のように、魂は茂った薮の中に身を隠すことを求める。特に他者が周囲にいるときはそうだ。野生動物を見たければ、「出て来い!」と叫びながら森に突入するなどもってのほかであることは、誰でも知っている。しかし、静かにそっと森の中に入り木の根元に我慢強く座るならば、会いたいと思っていた野生動物は、もしかしたら出てくるかもしれない。(パーカー・パルマー 「A Hidden Wholeness」より)




 私たちのたましいの最も深い部分は、滅多なことでは顔を出さない。それは、カタツムリのツノのようでもある。カタツムリをつまんで、突っつきまわすなら、殻の中に隠れて、ツノどころか身体全体も見えなくなってしまうだろう。しかし、静かにそっと手のひらに乗せ、ただ見守っているなら、やがて殻から身体を出し、触覚も伸びてくる。


 私たちのたましいの深い部分も、責められる、裁かれる、レッテルを貼られると感じたら、まず姿を見せることはない。誰かの真の姿に出会いたいのであれば、「安全な環境」を作らなくてはならない。その人にとってのsafe placeにならないといけない。忍耐を持って待たなくてはならない。何が出てきても受け入れる覚悟を持たなくてはならない。脅したり、相手の反応をコントロールしようとしては絶対にいけない。


 神様が取り扱うことのできるのは、取り扱いたいと願っておられるのは、究極的には人のそのような部分であり、仮面や鎧をつけたままでいくら神様の前に出ても、神様はその人が必要としている部分に触れることができない。スピリチュアル・ディレクターは、その人のたましいが神様の前に出るのを助ける。