ルカ7:36-50


 ひとりの罪深い女が、パリサイ人の家で食卓についておられるイエスのところに来て、香油のはいった石膏のつぼを持ってきて、泣きながらイエスのうしろに立ち、涙でイエスの御足をぬらし、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。パリサイ人は心の中で「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるかを知っておられるはずだ」とひそかに思った。しかしイエスは、シモンにあるたとえ話をし、それから女のほうを向いてシモンに言われた。


 「この女を見ましたか。」


 イエスはシモンに何を問うておられるのだろう? 目の前にいるのだから、彼女のことも、彼女がしていることも、見ているに違いないのに。単なる修辞疑問文だろうか?


 「この女を見ましたか。」 


 イエスは何をごらんになったのだろう?


 イエスのまなざしの深さを思う。イエスがこの女をごらんになったのと同じまなざしで、イエスは私をごらんになった。だから今、私はこうしてここにいる。


 日々の暮らしの中で、出会うさまざまな人々。すれ違う大勢の人々。私はほとんど気にもとめず通り過ぎていくかもしれない。でも、もしかしたらイエスは私にも、「この人を見ましたか?」と問うておられるかもしれない。


 イエスのまなざし。


 主よ、あなたの目は何をごらんになるのでしょうか。あなたがごらんになっているものを、私もまた、同じまなざしで見ることができますように。そして、そこに見るものに、応答することができますように。


 「この女を見ましたか。」