昨日のスピリチュアル・ディレクションでは、Centering prayer とWelcoming prayerに関する話をした。その中で私のディレクターが言っていたことのメモ。トーマス・キーティングの言葉。



 Centering Prayer is a method designed to facilitate the development of Contemplative Prayer by preparing our faculties to receive this gift. It is an attempt to present the teaching of earlier times in an updated form. Centering Prayer is not meant to replace other kinds of prayer; rather it casts a new light and depth of meaning on them. It is at the same time a relationship with God and a discipline to foster that relationship. This method of prayer is a movement beyond conversation with Christ to communion with Him.



 ただ神様のご臨在の中で沈黙のうちに座る祈り。キーティングは、神様の第一言語は「沈黙」である、とも言っている。そして、Centering Prayerは、神様の第一言語を学ぶための祈りでもある、と…



主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。(第一列王記19:11-12)



 また、「魂の暗夜」の話も出た。神様の御臨在や語りかけ「感じる」ことができなくなるとき、それでもなお、単なる頭の中の知識を超えたところで神が共におられることを知るとはどういうことなのか… それは、「呼吸」ではないか、と。たとえ私たちの五感のすべてが神をまったく感知できないときでも、私たちの霊も神をまったく感じられないときでも、私たちが呼吸をしている限り、それは私たちの内に聖霊がともにおられることの証拠だ、と。私がつい先日、ブログに書いたのと同じことだったので、びっくりした。



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